先週、フェリックス・ガタリの『精神分析と横断性』を読み終えました。
何という本を読んでしまったかというのが、まず浮かぶ正直な感想です。翻訳者の杉村昌昭さんは「訳者あとがき」で、これは「奇書」であり、「思想の“びっくり箱”でもある」ともいっている。

専門家が奇書というほどの本を、ぼくが理解できたとはいえない。けれどここには、精神障害について、より深い理解にたどりつくための多くの手がかりがあると感じました。
一例をあげるなら、ガタリは狂気について、社会から排除するのではなくむしろ「出発点として近代世界を読む」ことを提唱する。
・・・問題は知識人や狂人のおかれている状況の特殊性を切りちぢめて、それを一般的秩序のなかにおしこめて見ることを受けいれるという消極的態度から脱して、逆に、彼らの主観的立場の特異性を出発点として近代世界を読むということなのである。・・・(p373)
これは1969年の記述ですが、基本的な構図はいまも変わりません。
ぼくらは狂気を、「一般的秩序のなかにおしこめて見る」べきではない。
狂人を病院に閉じこめたり、「治療」「鎮静」するのではない方向を。彼らの「主観的立場の特異性」、すなわち狂人がぼくらとはちがう世界との関係性をもつことを読み取り、そこから近代世界を読み直そう、といっている。
いや、そうはいってはいない。
ガタリはそういっていると、ぼくが解釈しています。

では狂人の「世界との関係性」とは何か、そこから読み直せる「近代世界」とは何か。そうしたことについての答えはどこにもない。わからない。
わからないけれど、探し求めたい。本書をさらに読みこむことで。
と思いつつ、立ち止まります。ものごとはそう単純ではない。
『精神分析と横断性』を読み、多くの手がかりがあると感じたけれど、同時にわかったのです。もっと先に進むには、おおもとの「精神分析」を知らなければならない。
そこでぼくは、松本卓也さんの『人はみな妄想する』をアマゾンに発注しました。精神分析を提唱したジャック・ラカンについての好著らしいので。
フロイトからラカンへ、ラカンを批判したガタリへ。さらにあわよくばラボルド病院と制度論的精神療法へと進みたい。そうした理論や思想がないまま、おなじような精神療法にたどりついた北海道の浦河ひがし町診療所が、なぜ可能だったかについても考えたい。
異端の世界に遊びたい。
(2025年2月17日)