精神分析の本はあまたあるけれど、ほとんどはフロイト、ラカンを踏襲しています。ぼくはこれまで1冊読んだだけですが、とても理解はできなかった。精神分析では、精神科医と患者が1対1で向き合うという。そんなのむりだとしか思えませんでした。
おそらく、北海道浦河町の精神療法になじみすぎていたからでしょう。浦河では、精神科医の川村敏明医師が患者によくいっていました。
「半分だけ治すから、あとの半分は仲間に治してもらえ」
回復は、おなじ精神病の仲間とともに探し求めよう。
川村医師は、こうもいっていました。
「1対1で治しても、よくならない」
浦河の精神療法は、密室で精神科医と患者が向かうという旧来の精神分析とはまったくちがった方向にむかっていたのです。

おなじように、ちがった方向にむかったのがフェリックス・ガタリでした。
ガタリは精神分析の重鎮、ジャック・ラカンに師事しています。けれどラカンからしだいにそれ、精神分析を別の枠組みで捉えるようになった。ラカン本人を批判してはいないけれど、ラカン「派」のしていることは神話だと批判するまでになった。
批判は、必ずしも否定ではない。けれどぼくが理解するかぎり、重要なちがいのひとつは「1対1」です。
ガタリは、患者が精神科医と1対1で対話する旧来の精神分析に否定的でした。
「精神療法というのは、二人ではあまりうまくいかない。うまくいくこともあるけれども、それは特別の場合で、ちょっとばかり特殊な味わいをもったタイプの人間でなければならない」(『精神分析と横断性』p418)。

精神療法は精神分析とはちがうけれど、精神病にかかわる連続した段階でしょう。いずれも二人では、1対1では、「うまくいかない」のではないか。
ガタリのいたラボルド病院では、二人っきりということは絶対になく、二人になっても「必ず誰かが後ろにいて、ドアのかげで立ち聞き」していると、ユーモラスに記述してもいます。
ガタリのいう精神分析は、狭い意味での治療ではないのでしょう。それは患者だけでなく、病院や政治経済、一般社会までの広い範囲にある「無意識」を捉えることではないのか。その無意識とはどのようなものか。
考えることは多々あるけれど、まずはラカンから読もうと考えています。あわよくばそこからガタリ思想に少しは迫ることができるかもしれない。
無謀になりなさいと、ガタリにささやかれている気がするのです。
(2025年2月19日)