このブログはガタリ論ではないからもうやめます。でもこれだけは付け足しておきたい。
ガタリ思想の源流には先住民の世界観がある。
ガタリ思想はひとつの理論体系ではなく、複雑な幾筋もの、また幾層もの思考の動的な編成だから、源流といっても多種多様だけれど、重要なひとつが先住民の世界観です。
ここを見るとガタリ思想がこれまでより鮮明に浮かびあがる。なぜガタリが精神病をあのように見たかもわかりやすくなります。

道案内となったのが、『フェリックス・ガタリと現代世界』(ナカニシヤ出版)にあった村澤真保呂さんの論考でした。
ぼくの勝手な要約は以下のようなものです(同書 p226-228)。
1)20世紀初頭、演劇家のアントナン・アルトーが、メキシコで先住民タラウマラ族に大きな影響を受けた。大地の霊と一体化する一種の憑依体験などによって。
2)アルトーは、大地と一体化した自己こそが「生きる」ものであり、そうでない自己はたんに「存在する」だけの、いわば“もぬけの殻”とみなした。
3)“もぬけの殻”は「器官としての身体」を維持するにすぎないけれど、生きることはそうではなく、「器官なき身体」を生きることだ。
4)この「器官なき身体」が、のちにフェリックス・ガタリとジル・ドゥルーズの共著『アンチ・オイディプス』の基本概念になった。

アルトーは、「ただ存在する」のではなく「生きよう」と呼びかけた。
そのアルトーは分裂症と診断されていたので、彼のいうことを多くの人は見すごした。けれど分裂症を精確に捉えていたガタリは、アルトーの世界観を根源的に重要な概念とみたのでしょう。
ただし、ガタリはアルトーをそのまま継いではいない。
アルトーは「生きる」と「存在」の二者択一を迫ったけれど、ガタリはそうではなかった。現実の人間はその両方をともに、同時に引き受けざるをえない。その複雑さが、人間存在の「主観性」や「横断性」という、ガタリ独自の哲学概念へと昇華していった。
ガタリ思想の形成には、分裂症がきわめて重要な働きをしている。だからなじみやすく、わかる部分がある。それが先住民の世界観ともつながると聞くと、ますます魅力的です。病める現代世界は、救いを求めるなら先住民や分裂症に目を向けなければならない。もっとも反現代的なものとしての異端、マイノリティに学ぶべきなのです。
ガタリ思想を手がかりとして。
(2025年12月8日)
