オッペンハイマーの時、ということばが出回っています。
われわれは原爆を開発したときとおなじように、AI、人工知能の開発を進めていいのか、それとも立ち止まるべきか、岐路に立たされているという意味です。
映画「オッペンハイマー」のクリストファー・ノーラン監督が、NBCニュースのインタビューで述べました。
「AIの研究者と話すと、彼らは自分たちとってはいまがオッペンハイマーの時(Oppenheimer moment)だといっている」(NBC News, 7月22日)。
ノーラン監督の3日後、AI利用の最先端にいる企業のひとつ、パランティア・テクノロジーズ社のアレクサンダー・カープCEOが、ニューヨーク・タイムズへの寄稿で書いています。
「われわれの前には、最新の人工知能がやがて人類を超えるかもしれないという脅威から、開発を中止あるいは規制するか、もしくは野放図な開発を許して、かつて国際間で広がった核競争とおなじ事態を今世紀もまたくり返すのか、この二つの選択肢がある・・・まさにオッペンハイマーの時だ」(NYT, 7月25日)。
香港科学技術大学のディーカイ教授もいっています。
「オッペンハイマーの時は現実になった」(NYT, 12月10日)
では当のロバート・オッペンハイマーは、どんな事態に直面したのか。
ちょっと調べたらわかるのですが、彼には「岐路」なんかなかった。原爆を開発すべきか、止めるべきか、まったく悩みも迷いもせず、1942年、すなおにマンハッタンプロジェクトに参加しています。そのことを戦後、政府の委員会でいいました。
「技術的に魅力あるものだったら、人はそれをやってしまう」
物理学者として原爆の開発は魅力だったのでしょう。でも広島、長崎の惨禍を知り、自分たちは何かとんでもないことをしてしまったと気づいたらしい。具体的な反省や謝罪の記録はないけれど、深い葛藤を抱えたことが伝聞から浮かびます。
だからオッペンハイマーの時というのは、比喩として適当でない。
オッペンハイマーは岐路に立たなかった。あとになってからあれはまずかったと反省しただけですから。いまAIを開発している人たちは、技術的「魅力」にひかれて邁進する人もいれば、立ち止まっている人もいる。みんなが岐路に立っているわけではないのです。
それでも、いまはやはりオッペンハイマーの時なんだろうか。
マンハッタン計画でも、立ち止まった人はいたにちがいない。
立ち止まらなかった人たちが開発を進め、とんでもないAIができたときにはすでに時遅しとなるのかもしれません。AIは人類に、核兵器よりも悲惨な境遇をもたらすかもしれない。
後悔先に立たずというのが、オッペンハイマーの時のほんとうの意味でしょうか。
(2023年12月15日)