エマニュエル・レヴィナスは、「顔」の哲学者です。
主著とされる『全体性と無限』は難解でほとんどわからなかったけれど、やはり印象に残ったのは「顔」でした。
「顔」は、「殺してはならない」と原初の言葉を投げかける。人を殺しても、顔があらわす「無限なもの」は殺せない。無限なものとはホロコーストの「無」であり、「他者」としての人間存在なのだろうとぼくは読んでいます。

そのレヴィナスを論じた本を、たまたま最近2冊読みました。
一冊は古怒田望人さんの『クィア・レヴィナス』です。
レヴィナスを「クィアに読み解く」という、意表をつく試みでとてもおもしろかった。クィアは性的少数者のことですが、そういう立場から読み解くとレヴィナスには「女性性」があり、その思想には「クィア性」がある。これはとても新鮮な視点でした。

もう一冊の本『繊細さについて』は、ドイツの哲学者スヴェンヤ・フラスペーラーさんの著作です。現代人はむかしの人にくらべ、ずっと繊細で傷つきやすい。それは必ずしも弱さではないと論じている。
ぼくが引きこまれたのは、この本の「ある論争――ニーチェ対レヴィナス」という項目でした。
傷つきやすさと繊細さを、ニーチェとレヴィナスだったらどう論じるか。これを二大哲学者の架空の論争にしたてている。
ニーチェは傷つきやすさを克服すべき特性とみなすだろう。レヴィナスは傷つきやすさに開かれてゆくだろう・・・

(Credit: Bracha Ettinger, Openverse)
長々とつづいた論争のあとで、女性であるフラスペーラーさんはいいます。
ニーチェは傷を負って強靭さを身につける、すなわち「傷から力が生まれる」という。けれどレヴィナスには「傷つきやすい状態を保つこと」が重要で、「傷は絶対に閉じてはならない」ものだ。他者に対する共感を失わないために。
「歴史を振り返れば、レヴィナスの主張は正しかったように思われる。近代初頭に決定的な変化をもたらしたのは、まさに共感という感情ではなかったか」
2冊の本は、レヴィナスの思想が「周縁的」であること、だからこそ少数派、すなわち有色人種や性的少数派、女性、難民、もちろん精神症者とも、きわめて親和性が高いことを教えてくれます。
レヴィナスをこんなふうに読むなんてと、驚きながら何かが腑に落ちる。
クィア。女性。少数派や周縁化された人びとは、ぼくが知らなかった地平をひらいてくれます。彼らの目が、“過去の哲学”を現代の先端によみがえらせているかのようです。
(2026年10月28日)
