正常なのはどちらか

 世界の裏側。
 ここしばらく、このことばをくりかえし頭に浮かべています。
 精神分析家で哲学者のフェリックス・ガタリがいいました。正確には、本人と交流があった作家のマリー・ドゥピュセが、ガタリを回想するなかで出てくる表現です。

・・・フェリックスにとって精神病は、奇妙で、不安をもよおすとともに魅惑的でもある「一種の世界の裏側」を体現するものであった。・・・

 このあとにも「彼の言う「世界の裏側」」というくり返しがあるから、きっとガタリはこのことばを口にしたにちがいない。
『精神病院と社会のはざまで』という本にあります。ガタリが書いた「精神の基地としてのラボルド」などのテキストが収録された本です。

『精神病院と社会のはざまで』
フェリックス・ガタリ著、杉村昌昭訳、水声社、2012年

 世界の裏側。言いえて妙です。
 生涯を精神病とともに過ごしたガタリだからこそ、こんなふうにいえたのでしょう。話す相手が盟友の作家だったから、凝縮された味わい深い表現になった。

 裏側といっても、精神病や精神病者に対するネガティブなニュアンスはいっさいありません。むしろ逆だとマリー・ドゥピュセはいいたいようです。
・・・精神病者と制度論的問題意識を持って接触しながら仕事をする者は、世界との関係が激変し、日常的な生活の変更によって「自らの存在を再獲得」する機会を提供されることになる・・・
 精神病と出会い、人は「世界との関係が激変」し、「自らの存在を再獲得」する。
 世界の裏側で。

フェリックス・ガタリ (1930-1992)
(Credit: Na5069wv, Openverse)

 ところが、裏側にいると裏があたりまえで表こそが裏に思えてくる。だからでしょう、ガタリが活動した精神科病院、フランス中部のラボルド病院では、「正常者」のことを「正常病者」と呼ぶようになったとドゥピュセはいいます。

 すばらしい。
 正常病者。まったくおなじことを、ぼくの知る世界の裏側、北海道浦河町の精神科でもいっていました。浦河ではもっとユーモラスに、「カルテのない人」といっていた。精神科に通ってはいないけれど、やはりビョウキの人々。つまりぼくらのことです。
 正常者、正常病者、カルテのない人。
 表側から見れば裏側、でも裏側から見ればいつしか表も裏になる。
 表と裏、精神病と正常病、思考の反転をぼくは楽しみます。
(2025年1月27日)