衝動と精神障害3

 衝動をめぐる谷川嘉浩さんの議論でぼくが強く引きつけられたのは、衝動とともに生きる人生は自分を変えるということでした。
 空揚げだの洋服の仕立てだの野鳥観察だの、合理的に考えたら「何それ?」というようなことにのめりこんでしまう。そうしないではいられない「衝動の生み出す強烈な力」は、それまでの自分が「書き換わる」経験をもたらします。哲学者のジョン・デューイはそれを「回心」や「再生」ということばで語っている。
・・・とはいっても、あまり難しい話ではありません。そういう言葉遣いを通して、「ハッとさせられる瞬間」のことを語っているだけです・・・

「ハッとさせられる瞬間」。「自己破壊」といって構わないほどに、ものの見方や想像力が変わる経験がそこからはじまります。それは理屈で説明できるようなものではありません。
・・・衝動の非合理性をよく表しているのが、「衝動に根ざした行動は、自分でも驚くような行動だ」ということです・・・

 何かに取り憑かれたような非合理性。ハッとする瞬間。驚き。自己変容。
 衝動がこんなふうに語られるとき、ぼくは精神障害をめぐってもまさにおなじようなことが起きると思っています。
 まず発症のとき。たとえば妄想に取り憑かれ、全世界が反転するかの経験にハッとしてパニックに陥る。どうしてこんなことになるのか、迷走しながら人が変わる。
 回復の過程でもまた。
 病気にとらわれていた自分の発見。ふっと救われるような転換。驚きと変容。いったい自分には何が起きているのか。

 回復といっても、治癒ではありません。
 幻覚や妄想や行動障害が消えるわけではないから、苦労は残る。しかし病気から自分を少しでも切り離すことができれば、精神障害は共に生きることができる。それを活かし、自らの「生の姿」をもたらす道筋にもなりうる。
 衝動も精神障害も、人間の抱える「わけのわからなさ」がもたらします。それがプラスに出れば「衝動」で、マイナスに出れば「精神障害」でしょうか。プラスとマイナスはつねに判然とするものではないけれど。

 精神というよりは、また衝動というよりは、魂の奥深くにあって、非合理的で予測のつかない形でぼくらを突き動かすもの。その「わけのわからなさ」を、負債ではなく資産とみたい。わけのわからなさこそがぼくらの本態だというとらえ方。そこが大事ではないか。
 谷川さんの議論に刺激されて考えたけど、わからないことはやっぱりわからない。
 そしてわからないのが、いまは不安というより安心です。
(2024年6月4日)