かつてこの世に、こういう青年がいたことを覚えていたい。
ぼく以外にも、誰かひとりでもいい、彼のことを知り語り継いでほしい。そんなふうに思う青年がいます。
寺尾薫治(てらお・のぶじ)さん。
1943年、徴兵され戦争に行く直前に、20歳で自殺しました。軍国主義の嵐が荒れ狂っていたこの国では、徴兵拒否どころか戦争に反対もできなかった時代です。出征直前に自ら命を断つなど、およそありえないことでした。ひた隠しにされていた出来事です。
70年後にこの出来事を世に伝えたのは、本人の弟である寺尾絢彦(あやひこ)さんが2013年に自家出版した『薫治兄さんとあの時代』という本です。
静岡県で生まれた寺尾薫治さんは、学業だけでなく絵や音楽、文学にも才能がありました。ヴェルレーヌの詩を原文で揮毫し、童話を創作したといいます。戦時下の教員不足から19歳で国民学校の代用教員となり、4年生の受け持ちとなりました。教え子のひとりは、先生の自由闊達な気風をよく覚えています。
「先生はオルガンを弾いて有名な外国の歌を歌ってくれた。というより先生自ら楽しんでいた様子。隣のクラスの先生が驚いて入って来てやめさせようとしたが、『良い歌と良い絵は世界共通だ』と言って、平然とオルガンを弾きながら、先生は歌っていた」
子どもたちは、こんなことばも聞いています。
「僕は、あの軍隊の行進のザックザックという音が大嫌い! 耳を塞ぎたくなる」
これが保護者の耳に入ったらたいへんだったと、弟の絢彦さんはいいます。
「それを承知で話していたとすれば、兄さんは既に自分の生きる世界が無くなっていくことに対してどうすべきか覚悟を決めていたのかもしれません」
兄さんは、母さんの前ではさらに率直に「こんな戦争に勝てるはずはない」ともいっていました。
堅固な思想からというより、当時の日本軍国主義やそれがもたらす狭量への耐えがたい嫌悪感があったのでしょう。文学や芸術をとおし人間の普遍的な価値にふれた青年が、自由を求めつづけたのだと思います。
1943年11月24日、薫治さんは服毒自殺しました。駆けつけた医者のはからいで、死因は心臓麻痺とされた。弟の絢彦さんが真相を知ったのは何年もあとのことです。
あの時代、こうして戦争を拒否した人がどれほどいたかはまったくわかりません。そんな事実は隠され、いまも隠されているでしょう。
寺尾薫治さんという人がいたことを、ぼくは覚えていたい。
薫治さんの生き方を記録にまとめ出版した寺尾絢彦さんにも、深い敬意を覚えます。
(2023年10月24日)