ゴッホの死

 宇野邦一さんの『ドゥルーズ 流動の哲学』について、もう一点、補足します。
 前々回、この本から「精神病は本質的に医学の外部にかかわる」という部分を引用しました。
「精神の病が発生することは、この社会の集団、家族、関係のあり方に、ひいては政治にも資本主義にも密接にかかわっている」(p149)。
 ここには哲学の、医学とは異なる分裂症の捉えかたがよく表れています。

 ジル・ドゥルーズは、フェリックス・ガタリとともに、分裂症を治療すべき病気とみてはいなかった。そこには、分裂症の原因は社会にあるから、社会を治療すれば分裂症は後退するという含みがありました。

 ドゥルーズ=ガタリの主著『アンチ・オイディプス』は、冒頭で画家ファン・ゴッホの自殺にふれています。
「社会によって自殺させられたゴッホ」という表現で、ドゥルーズ=ガタリは、精神病で自殺したゴッホは、社会にそう“させられた”と示唆している。
 19世紀の社会が精神病にもっと適切に対処していれば、巨匠の自殺はなかったというのでしょうか。

 医学者は別の言い方をするでしょう。
 精神医学にも、かつて分裂症は病気ではないと主張した「反精神医学」の流れがありました。けれどいま大部分の精神科医は、分裂症、統合失調症を疾病とみなし、治療の対象にしている。精神の「病気」には社会的な要因もあるだろうが、それだけでは説明できない。
 ゴッホの自殺は防げたかもしれないが、防げなかったかもしれない。防げない自殺はいつの時代にもあったし、いまあるだろう。

 哲学と医学は、おなじ病気をまったく別様に見ているのでしょうか。
 そうではない。どう見るかはそれぞれの立場によってちがうということでしょう。
 医者にとって、統合失調症はなによりもまず治療の対象です。
 けれど哲学は、それ以前で立ち止まる。治療以前の狂気は、私たちに問いかける。統合失調症とは、狂気とは何か。私はあなたの分身であり、あなたは私の分身だ。その私をあなたはどうしようというのか。私をとおしてはじめて、あなたは覚醒するというのに。

 精神医療の現場にいたフェリックス・ガタリは、こんなふうに考えていたのではないか。ガタリの狂気との遭遇、そして和解が、ドゥルーズ=ガタリの哲学へと結実したのではないか。
 ゴッホは社会によって自殺させられた。
 ぼくらは、精神病を「医学の外部」で捉える作業をつづけなければなりません。
(2025年8月15日)