分裂症という呼び方

 宇野邦一さんの著作には、「分裂症」ということばが使われています。
 分裂「病」ではなく、分裂「症」。
「症」は「病」より広い概念だから、「分裂症」はいまでいう統合失調症とその周辺の精神疾患を広くふくめてさしているのでしょう。
 それにしても、なぜ統合失調症でなく分裂症なのか。

 たぶん、哲学の分裂症は医学の統合失調症とはちがうのでしょう。哲学者は、統合失調症より広い範囲の精神疾患をイメージして分裂症といっている。一方、医者は、DSM(アメリカ精神医学界の診断基準)で判定された症例としての統合失調症、旧分裂病を思い浮かべる。そんな診断には無理があるとわかっていても、とりあえずそうする。
 それぞれ一定の精神病をイメージしているけれど、中味がちがう。

 興味深いのは、精神科医で哲学者でもある松本卓也さんの見方です。
 彼は「精神病の一形態としてのスキゾフレニー」という言い方をして、それに「註」をつけたことがある(『現代思想』2013年6月号「人はみな妄想する」)。
・・・この用語は精神医学と精神分析では意味が異なる(中略)、この用語に「分裂病」「分裂症」「統合失調症」といったオイゲン・ブロイラー由来の精神医学用語に対応する訳語を与えることはそもそも不適切である・・・

 特定のテーマを議論するときは、分裂症とも統合失調症ともいわず、スキゾフレニーという。 たしかに、百年前の精神科医、オイゲン・ブロイラーがつくったことばの日本語訳を、今日の「精神病の一形態としてのスキゾフレニー」に適用するのは無理でしょう。だから哲学的な議論、ことに精神分析がかかわるときは、スキゾフレニーといったほうが紛れがない。

 ちょっとだけ、すっきりします。
 でも霧が晴れるのは一瞬で、つぎの瞬間にはまた濃霧に包まれる。
 じゃあスキゾフレニーって、いったい何なのか。
 それは病気なのか、そうでないのか。病気でないとするなら、だれもがみな精神病だという意味だろうか。スキゾフレニー/分裂症/狂気をめぐる無数の疑問が、思いが、渚に打ち寄せる波の泡と浮かんでは消えていきます。ドゥルーズ=ガタリの哲学って、こんなふうに際限のない流動なんだろうか。

 呼称がバラバラで一致しないのは、当然ではないか。
 ぼくらは、狂気が明確に説明できないことに、狂気の中味が千差万別であることに、不安や焦燥を覚えるのではなく、むしろ安心すべきではないか。
 そんな思いが、よぎります。
(2025年8月13日)