『人はみな妄想する』を読んで、考えたことは多岐にわたります。
そのなかで、おそらくいちばん重要なのは次の指摘だと感じました。
「精神分析はあくまでも個人的なものであり、しかも個人それぞれの「狂い」の場所を確保しようとするものである。それゆえ、メンタルヘルスと精神分析はアンチノミーをなす」(441)
アンチノミーは二律背反です。メンタルヘルスと精神分析はあいいれることがない。なぜなら精神分析は個人的なものであり、「狂い」を確保するものだから。逆に、メンタルヘルスは個人的なものではなく、狂いを排除し、矯正しようとする。
この本をずっと読み進んだ最後に、結論でこういわれると、まことにそのとおりとくり返しうなずきます。

著者の松本卓也さんが今日の精神医療を根底から批判した部分です。
おなじような批判が、本書のなかではくり返されている。精神疾患診断マニュアル「DSM」への批判、「平準化」された精神医療への疑念、ビッグファーマが支配する抗精神病薬への危機感などがあちこちで表明されている。ラカンの精神分析を説く本書は、今日主流とされ、圧倒的多数の精神科医が帰依する「メンタルヘルス」への異議申し立てでもある。
「メンタルヘルス」というのっぺりしたことばで表象される今日の精神医療と、ラカンの精神分析はあいいれることがない。
精神科医でもある松本さんは、精神医学を否定しているわけではありません。“今日主流となっている精神科”を批判している。しかもその批判を、精神医療の外部である精神分析という立場から行っている。
核心にあるのは、“狂気”とどう向き合うかです。主流の精神医療は狂気を否定するけれど、精神分析は「狂い」を確保しようとする。それは人間は根源においてみなおなじという立場と、根源までたどればみなちがうという立場のちがいでもある。

ラカン精神分析における「狂い」は、一般化することができない個人個人の特異性とされる。ぼくはそれ以上の説明はできないけれど、浦河での言い方は知っています。
そのままでいい。
病気、精神病とともに生きているのがあなたであり、私なのだ。それはかんたんに治せるものではなく、治すのがいいかどうかもわからない。治すことばかり考えるのではなく、病気とともに、仲間とともに生きる道を模索しよう。だから浦河ではよくいいます。
勝手に治すなその病気。
ここでもまた、ラカンと浦河はつながっているとぼくは感じるのです。
(2025年4月4日)