自殺切迫症候群

 自殺の危険が高まった人をどう察知するか、精神医学者が悩んでいます。
 自殺の予知はむずかしい。本人にすら予知できないものを、どうすれば周囲が予知できるのか。これは医学だけでなく、哲学、倫理学の問題でもある(When People in Distress Deny Being Suicidal, Should They Be Believed? By Christina Caron. Nov. 19, 2025. The New York Times)。

 自殺について新たな診断基準を設けるべきだと提唱しているのは、ニューヨーク市マウント・サイナイ病院のイゴール・ガリンカー博士です。
 博士は精神科医として40年診療してきたけれど、患者3人が自殺している。そのうちのひとりから、キャビアの瓶を受け取っていた。死ぬ直前に博士へのお礼として送られたもの。添えられた手紙には、自殺するのは「あなたのせいではない」とあった。博士は、「ものすごく落ちこみ、立ち直るまでに2年かかった」といいます。
 以来、どうすれば自殺の兆候をつかめるか、考えつづけてきました。

 そこで提唱しているのは、SCS(suicide crisis syndrome)という概念です。
 自殺切迫症候群と訳せばいいでしょうか。精神科でよく使われる診断基準「DSM」に、この診断名を新しく加えるべきだといいます。
 自殺の危険性は、一般に4つの段階に分けられる。SCSはそのうちもっとも危険の高いレベルの患者を対象にします。執拗につづく深く強い絶望で、これ以上は耐えきれないという思いに圧倒されている人びとです。
 そういう人が一線を越える前に、その兆候を可能なかぎりつかみ治療に生かすこと。

 SCSはすでに一部の医療機関で採用され、治療効果はあがっているとガリンカー博士らはいいます。けれどその効果を科学的に検証するのはむずかしい。意欲的な試みだけれど、DSMの新しい診断名となるかどうかはまだわかりません。
 一部の学者は、SCSという診断はかえって患者を追いつめるともいっている。

 自殺を防ごうというこころみに異論はありません。
 けれど、一方で思います。すべての自殺が防止できるわけではない。医学や医療者がどれほど力をつくしても、自殺の兆候はつかみきれない。なぜなら人間は予測できないから。どんなに科学が発達しても、ひとりの人がどう生きるか死ぬかは予測できない。予測できないのは、人間存在の本性だともいえる。
 SCSという診断名が加わっても、自殺はなくなりません。
 そんなことは百も承知のうえで、ガリンカー博士たちは自殺を減らそうとしている。おそらくAIにはけっして理解できず、対処もできないところで。
(2025年11月21日)