でもクマを殺さない

 しばらく前にぼくはグリズリー、北米に住む大型のヒグマが危険だという「常識」を批判する学者の見方を伝えました(5月3,4日)。グリズリーは「危険で凶暴」というのは、ほとんどが西部開拓時代の白人の創作で、先住民は2千年にわたり彼らと共存してきたという話です。
 ではグリズリーと(あるいはヒグマと)、どう共存できるのか。
 単純な解はありません。グリズリーの危険が、まれにではあるけれど現実に起きていて、共存の形はつねに変わるからです(Veteran Survives Grizzly’s Attack After It Bites Into Can of Bear Spray. May 26, 2024. The New York Times)。

 5月にワイオミング州のグランド・ティトン国立公園で、ひとつの事件が起きました。
 35歳の退役軍人、ジェイン・バークさんがグリズリーに襲われたのです。バークさんはフクロウの写真を撮ろうと森のなかに入り、20メートルほど先にグリズリーの仔熊がいるのに気づきました。まずいと思ったときには、もう母親がこちらに向かってくる。バークさんはクマ撃退用スプレーを使う余裕もなく、地面にうつ伏せになって両手を首の後ろでしっかり組みました。グリズリーに会ったらそうするようにと、学んでいたとおりに。

 母親グリズリーはバークさんに何度も噛みつき、身体ごと持ち上げて地面に叩きつけたりもした。バークさんはかつて戦場の銃撃で負傷し、迫撃砲弾の爆風に飛ばされたり、乗っていた車両が爆破されたこともある。そのすべてを上回る暴力を被ったといいます。
 たまらず悲鳴をあげたのがよかったらしい。グリズリーは声がするバークさんの頭に目を向け、首に噛みついたのです。ところが首の後ろでしっかり組んだ手のあいだには、クマスプレーがあった。グリズリーはバークさんの手と同時に、スプレー缶も噛んでしまった。
 口のなかで破裂するクマスプレー。
 スプレーなんてもんじゃない、口内で起きる激辛エッセンスの爆発。
 母親グリズリーはパニックだったにちがいない。早々に逃げ去ったといいます。

クマ撃退スプレーの一例(Amazon社サイトから)

 バークさんは、幸運にも大きな動脈は噛み切られなかった。止血など応急措置をして携帯電話で救急を要請し、ヘリコプターに搬送されて一命をとりとめています。
 自分が助かったのは、アメリカ国立公園局が公開している「熊に出会ったらどうするか」を読んでいたからであり、またクマスプレーを持っていたからだといいます。そして母親グリズリーは子どもを守るために自分を襲ったのであり、殺さないでほしいと国立公園のレンジャーに要請しました。

 人間を襲ったクマはその後も人間への襲撃をくり返す恐れがあるため、探し出して「管理的処分」、安楽死させることが多い。でも今回のケースは公園のレンジャーもグリズリーの防衛的行動とみて放置するようです。
 バークさんの対応は、クマとの共存を考えるうえでのひとつの好例になるでしょう。
(2024年7月9日)