ホロコーストは、ますます影が薄くなっている。
600万人のユダヤ人が殺された人類史の大惨事を忘れてはならない、くり返してはならないというけれど、いまや空疎なお題目になっていないだろうか。
イスラエルが、ガザでしていることを見ると。
ジェノサイドを経験した人びとが、いまジェノサイドを行っている。
そんなふうに単純に捉えてはいけないと思うけれど、そう捉えてしまうときがあります。
臨床心理士、オーリ・ピーター博士の寄稿を読んで思いました(If Only My Father Could Choose to Deny the Holocaust Ever Happened. By Orli Peter. July 26, 2025. The New York Times)。

ピーター博士は、ホロコーストの生存者である96歳の父親について書いています。ポーランドのユダヤ人居住区にいた父親は、11歳のときドイツ軍によって収容所に閉じこめられました。飢餓と病気、強制労働の過酷な境遇のもとで、2万人いたユダヤ人の多くが死亡するか殺害され、家族親族のほとんども亡くなりました。
ホロコーストを生き残った父親は、いまアルツハイマー病になっている。
ピーター博士はいいます。
認知症になったら、むかしのことはどんどん忘れてしまう。だからホロコーストの悪夢も消えればいいのに、そうはならない。むしろ鮮明に浮びあがる。認知症になって脳の防衛機能が失われたぶん、過去の強烈な記憶はナマの形で、突然、まえぶれもなく現れる。
トラウマの専門家であるピーター博士は、ホロコーストがいまなおどのように人びとを苦しめているかを説きます。ホロコーストの経験者は認知症になる率が21%高い。それはあの過酷な経験のせいだ。高齢になり認知症になっても、いや認知症になったがゆえに、なおさら収容所のトラウマは制御できない形で回帰する。
ホロコーストは終わっていないというのでしょう。

なるほど。
想像を絶する過酷な境遇を、その後80年の後遺症を想像してみる。
その一方で、思わないわけにいかない。そういうトラウマが、いま、ガザの少年少女にきざみこまれているのではないか。ガザの子どもたちのトラウマも、80年たっても消えることはないだろう。
ガザのおかげで、ホロコーストがかすんでいる。
さらに、ぼくは広島を思います。もしも広島が被爆の被害だけを訴え、加害に目を向けないなら、広島もまたホロコーストとおなじようにかすんでいくのではないかと。
(2025年8月6日)