対面というぜいたく

 アメリカのある学生が、自分たちにはもう「人に話しかけるって文化がない」といっていました(11月15日)。みんないつもスマホを見ているから、話しかけたら悪いという冗談半分です。が、ぼくは冗談よりほんとに近いと思いました。
 こんなにコミュニケーション手段は豊富になったのに、いやそのせいでしょう、人が対面で話すことが少なくなったとコラムニストのジェシカ・グロースさんはいいます。つながっているようで、人の孤立は深まっている(Human Interaction Is Now a Luxury Good. By Jessica Grose. Dec. 4, 2024. The New York Times)。

 グロースさんは、社会学者アリソン・ピューさんの新著を紹介しながらこの問題を論じます。ピューさんは、医療や教育など、人間が人間の相手をするあらゆる場面で、生身の人間が相手をしてくれるのはますます金持ちの特権になったといいます。
・・・専門のコンシェルジュによる相談付き医療だとか、少人数クラスでの教育だとか、買い物代行サービス。対して、金のない人は忙しい医者の15分診療を受けるのに長時間待たされ、子どもは公立学校のすし詰め教室に置かれる。ドラッグストアに行ってもセルフレジを通るだけ・・・
「人間が相手をしてくれるっていうのは、いまやぜいたくなんです」

 焦点のひとつが、病院の聖職者でした。
 日本の病院に僧侶がいたら場違いだけれど、アメリカの病院にはよく牧師などの聖職者がいます。患者の最期を看取り家族とともに祈る。けれどいまや聖職者の仕事はベッドサイドだけではない。患者家族とオンラインでつながり、ネット上で安らぎをもたらすという仕事が増えるばかり。テクノロジーが聖職者の仕事をわずらわしいものにし、患者家族とのゆっくりした時間をとるのはむずかしくなりました。

 SNSのおかげで、社会のあらゆる場面で人と人の接触、対面、会話が減っています。
 近所の商店で店員とちょっとした会話を交わす、ということがない。代わりに直面するのは、過重労働で疲れきった店員の投げやりな態度か、おなじ答えをくり返す壊れたようなロボットとのやりとりばかり。
 コラムニストのグロースさんの議論は、過去40年、技術の発達とともに人間同士の接触は減り、それがあらゆる既存の組織や体制への社会全体の不信感につながったと進みます。ちょっと粗い議論だと思うけれど、人間同士の接触が失われ社会が荒廃するということなら趣旨はわかります。

 ぼくらはときにスマホをやめ、ネットから遠ざかり、誰かの顔を見る必要がある。ことばをかわす必要がある。つとめてそう意識していないと、いつのまにか疎外への自動路線に乗ってしまう。対面というぜいたくを取りもどしたい。
(2024年12月9日)