きのう書いた「あれ」のつづきです。
「あれ」というのは、ぼくがかねてから考えている「社会的障害」に近い概念です。
世の中にはどういうわけか「うまく生きていくことができない」人たちがいる。
なんでそんなことができないの、といってしまうような人。逆になんでそんなことするの、といってしまうような人。
わかりやすい例でいえば金欠病。お金は使えばなくなると、わかっているのに使ってしまう。やめればいいのにネット通販で次々、必要でもないものを買ってしまう。アルコールやギャンブル依存もそれに近い。やめればいいのに飲んでしまう、パチンコ屋に行ってしまう。
そこまでわかりやすくない人たちがいます。
お金がない、仕事がつづかない、住むところがない、友だちがいない、悪いパートナーから離れられない。孤立し、ずるずると沈んでゆく。浮びあがれない。
そういう人たちを見ると、もうちょっと考えればいいのに、誰かに助けてもらえばいいのに、などと思ってしまう。それができないとわかり、だめだこの人と思います。でも本人は何をどうすればいいかがわからない。
そういう人は、身体障害者でも知的障害者でも精神障害者でもないけれど、社会のなかでうまく生きていけないという意味で社会的障害者というべきか、とも思います。あるいは“表社会”から疎外された少数派でしょうか。
精神障害者とおなじように、彼らとの関係にもちょっとした慣れが必要です。
基本は、こちらの基準で見ないこと。彼らを「だめな人」と見るとき、ぼくらは自分自身の基準で見ている。狭い基準で判断し、見捨てている。
そうではなく、だめに見えるけれどほんとはどういう人なんだろう、どんなふうにすればかかわれるのかと考えてみる。相手を変えようとするのではなく、こちらを変えてみる。自分の基準を保留したところで、どんな風景が見えてくるかを試してみる。そんなかかわり方を、ぼくは精神障害者から学んだと思います。
そこで見えてきたのは、「あれ」を抱えた人びとも、また社会的障害者も、表社会から疎外された少数派も、そしてまたぼくら自身も、高度にデジタル化され複雑につながりあったとされるこの社会で、じつはばらばらになっているのではないかということです。どんなにラインやネットでつながっても、そこではつねに「もっとつながらなければ」という強迫観念がつのる。生身の人間とのつながりがいつのまにか失われている。そのことがもたらす根源的な不安。そんなものがあるのではないかと考えるようになりました。
社会的障害者や精神障害者は、この根源的な不安をいちばん敏感に受け止め、反応している人たちかもしれない。
これは飛躍しすぎた見方、アナログ世代の幻覚でしょうか。
(2024年4月24日)