きのう、いいかげんこそが人間の本質と書きました。
ちょっとわかりにくいでしょうから補足します。
いいかげんは、精神科の世界ではとても大事な概念です。もっと正確にいうなら、北海道浦河町の精神科にかかわる人びとにとっては、とても大事な暮らしの知恵です。
知り合いの早坂潔さんはよくいっていました。
「一生懸命、いいかげんをやるんだ」
精神病、とくに統合失調症や不安症のようなつらい、苦しい、不安で居ても立ってもいられないというような苦労がつづく人は、そこからなんとか逃れようとする。懸命にがんばる。そうすればするほど、いつのまにか病気に囚われている。考えれば考えるほど、堂々めぐりの泥沼で煮詰まります。
そのようなとき、どこかでふと「もう、いいかげんでいいや」と思えるかどうか。これがしばしば分かれ道になる。
林園子さんというメンバーは、幻聴が激しく不安でたまらないとき、となりにいた仲間がなにげなく「はい、これ」と飴玉を渡してくれました。それで幻聴が消え、楽になった。はじめて深呼吸ができた。薬ではなく、飴玉ひとつで。
いいかげんというのは、一生懸命になりすぎない、正面突破をめざさないことでもある。
苦労を重ねた精神障害者は、その呼吸を身につけます。そして「一生懸命、いいかげんをやるんだ」という。
だからといって病気が治るわけではない。一時しのぎだし、いつも飴玉が効くわけでもない。そうではあっても、一瞬でも救われたという思いは本人にとってかけがえのない記憶になります。
ここには、深い意味があるのではないでしょうか。
いいかげんは、一般的にはよくないこととされる。ぼくらはずっと、ちゃんとやれ、しっかりしろ、きちんとしなさい、といわれつづけてきた。暮らしのなかの多くの場面で、それは必要であり維持されるべきです。けれど人間はずっとちゃんとしてはいられない。しっかりしてばかりでは、生きていられない。
浦河で多くの精神障害者を見ていると、人はしばしば精神障害をとおして本性を現すと思えるようになります。その精神障害は、「いいかげん」によって一時的にせよ、いつもではないにせよ、影を薄めている。これはどういうことだろうか。
人間はもともといいかげんなんじゃないか。いいかげんという本性を、あまり抑えすぎてはいけないんじゃないか。精神障害という現象を見ながら、ぼくはそんなことを考えています。
(2023年1月3日)