アイスクリーム以前

 認知症の最期について、新しい論者が新しい議論をしています。
 元気なときに書いた「意思表明」は、認知症になってからも有効なのか。有効だという見方と、認知症になったら生前の意思表明にとらわれないという見方と、両方が複雑にからみあっています。難問です(My Father Didn’t Want to Live if He Had Dementia. But Then He Had It. By Sandeep Jauhar. Oct. 23, 2023. The New York Times)。

 問題を提起したのは、サンディープ・ジャウハーという外科医です。
 認知症の父親の最期を看取ったとき、きょうだいで考え方がちがいました。
 焦点となったのは生前の父親の意思です。父親はまだ元気だったとき、兄に手紙を書いている。重い病気になったら延命措置は望まない、「意味のある暮らしができないなら生きていたくはない」と表明しています。その意思に沿って、兄は医療措置を止め、緩和ケアに移行した数日後に父親は息を引き取りました。
 この過程に、弟のジャウハー医師は違和感を抱きます。

 認知症になった父親はかつての父親ではなく、もう「意味のある暮らし」のできる人ではなくなっていた。だから兄は生前の意思に従い最期を決めた。けれど弟は、それでも父親は父親だったと思っている。
 言い方を変えれば、兄は「認知症で、父は本人が希望するような人ではなくなった」と考える。弟は、「でもこれが自分の父だ」と思う。
 兄は「生前の意思」を尊重して結論にたどりつき、弟は「生前の意思」は認知症になったら意味をなさないと考えた。

 長い経過のある複雑な問題で、明快な答はありません。
 もし机上の議論をするなら、ぼくは兄とおなじように生前の意思に従ったでしょう。でもベッドサイドにいたジャウハー医師は、別の光景を見ている。
 認知症が進んで会話も意思表明もなくなった父が、あるとき「スプーン1杯のアイスクリーム」に反応したといいます。食べ方や反応から、よろこんでいる(らしい)とわかった。認知症でも、わずかではあっても、本能的な動き、生きようとする意欲を見せている。
 それを「意味のある暮らし」と見るか、そんなものは「もう意味がない」と見るか。

 意味があるかないかは、本人が決めることです。でも本人にはそれができない。
 ぼくは認知症が末期の段階にいたれば、自分が自分でなくなるというより、わずかな感情を残しただけの「死んでいない身体」になると思っています。少なくとも自分自身の場合は。
 そうなったら、アイスクリームはいらない。それより早く平和に逝かせてほしい。
 そういう思いを、誰にどう伝えておけばいいのだろうか?
(2023年10月25日)