アダマン号への疑問

 ニコラ・フィリベール監督の新作を、勇んで見に行きました。
「アダマン号に乗って」、精神障害者の日常を記録したドキュメンタリーです。
 いい映画だったけれど、ちょっと眠ったい。なんでこれがベルリン映画祭の金熊賞なんだろうか、疑問でした。

 パリ、セーヌ川の川岸に浮かぶ大きな船「アダマン号」。実際には船の形をした大きなデイケア・センターです。ここにたくさんの精神障害者が集まってくる。彼らが歌を歌いピアノを弾き、カフェでくつろいだり働いたり、売上げを勘定したり。ミーティングがあり、インタビューや話し合いがつづく。あるいはただじっとカメラを見ている。そういう時間を、ゆったりと1時間49分の映像にしている。

セーヌ川

 じつにくつろいだドキュメンタリーでした。
 まるで終わりがない日々のような時間の流れ、ヴィム・ヴェンダース的だけれど、どこか温かみがあるところはまぎれもなくフィリベール監督の作品です。
 しかし、もの足りない。

 フィリベール監督は、かつて「音のない世界で」でろう者を描き、「すべての些細な事柄」で精神障害者を描いています。ことに前者は、ろう者をろう文化とともに描くことによって味わい深い作品となりました。孤立したろう少女が、おとなのろう者と出会ったことがなかったので、自分はおとなになる前に死ぬのだと思っていた姿が鮮烈によみがえります。「すべての些細な事柄」も、精神障害者の人間性を描いた佳作でした。だからこんどの作品にも期待した。でも、さて、どうなんだろうか。
 考えて、思いあたりました。ここには地域がない。

作品を見るデイケアのメンバー
(「アダマン号に乗って」パンフレットから)

 映画は、すべてデイケアのなかです。
 セーヌ川に浮かぶすばらしいデイケアセンター、そこで安心して過ごす精神障害者と、黒子のように彼らを支えるスタッフ。妄想や幻覚に振りまわされてはいるけれど、基本的には平和です。当事者同士のちょっとしたトラブルは、どこのデイケアにもある日常の光景。そうじゃない、彼らがデイケアの外で、地域でどう暮らしているのか、地域とどうかかわっているのか。そこが肝心だのに、いっさい描かれていない。

 精神障害者を「あたり前の人たち」として描いた映像は、これまでにもたくさんありました。「アダマン号に乗って」は、そうした系譜の映像でしょう。もちろんフィリベール作品だから、極上のムース・ショコラの味わいがある。でもいま描かれるべきは彼らの姿というより、彼らを排除する社会の病理ではないか。ぼくら自身の内なる病理ではないのか。この思いが、既視感を超えたもの足りなさにつながります。
(2023年6月7日)