このところ、よくフェリックス・ガタリをながめています。
20世紀後半に生きたフランスの精神分析家、哲学者のガタリです。
写真をながめているのではない、本をながめている。それも本人の著書ではなく、ガタリ哲学の解説書を。解説なら少しはわかるかと思ったのに、それすらも難解で歯が立ちません。
『フェリックス・ガタリの思想』(青土社、2024年)という本です。早稲田大学の伊藤守さんが書きました。
わからなくても、ながめるのをやめられない。
それは、ながめていればそのうちフェリックス・ガタリの思想に近づけるかもしれない、あわよくば精神病を理解する別な道が開けると思うからです。ガタリ哲学の全体はまだとてもわからないけれど、あちこちの断片的な記述に引きこまています。たとえば、ガタリが「制度的精神療法」について述べたこんな一節に。
「なにもいわない人が言葉を発するようにすること、実践的決断が生まれるようにすること」
ガタリの著書『精神病院と社会のはざまで』(水平社、2012年)のなかに、この記述はありました。それが伊藤守さんの著書で引用されている。「制度的精神療法」についてのガタリの解説を、さらにかみくだいて解説したなかで出てきた一節です。制度的精神療法とは、「言葉を発するようにする」のがひとつの鍵というなのでしょう。
投薬だの治療だのではなく、ことば。ことばを発すること。
それって、浦河じゃないか。
ガタリがいっているのは、北海道の浦河でよくみんながいっていた「手を動かすより、口を動かせ」ってことじゃないだろうか。あるいは「自分を語れ」ということ。
昆布作業をするとき、仲間との語りあいを大事にする、病気を語るのではなく自分自身の苦労を、気持ちを語る。それが精神病とともに生きる道だという捉え方。
そのような浦河での生き方が、フェリックス・ガタリとつながる。
「言葉を発する」以外にも、「アール・ブリュット」や「集団の発話」、「横断性」など、ガタリには浦河と重なる部分がいくつもあります。
そんなのは哲学に素養のないしろうとの寝言といわれるかもしれない。けれどガタリのいうことは、たしかに精神病者とともに生涯を過ごした人のことばだとぼくには思える。ぼくもまた、浦河で少なからぬ時間を精神病者とともにすごしていますから。
ガタリに、哲学からではなく精神病から迫る。そういう入り方だってあるんじゃないか。そんなことを思いつつ、きょうもぼくはガタリをながめます。
(2024年12月23日)