モラルハザード

 横文字ばかり並べて申し訳ありません。でも横文字のなかに気を引かれる議論がたくさんあるので、つい並べてしまいます。

 依存症、とくに合成麻薬の対策で、アメリカではハームリダクションという概念がキーになっていることを何度か書きました(2023年11月17日ほか)。薬物依存に対しては「禁止と処罰」より「治療と救済」で臨むアプローチです。
 ハームリダクションは、なによりもまず依存症の人、麻薬使用者の命を守ろうとする。麻薬の誤用や過剰服用の害(ハーム)を減らし(リダクション)、生き延びてもらう。そのうえで治療と救済に結びつけようという考え方です。禁止と処罰では麻薬は撲滅できない。そのことを警察も刑務所も、政治家も自治体も幾多の失敗を経て思い知りました。ハームリダクションは試行錯誤の末に現れたのです。

 とはいえ、禁止処罰派の抵抗は強い。
 そのひとつとして出てきたのが「モラルハザード」の考え方だと、薬物問題専門のジャーナリスト、マイア・サラヴィッツさんが指摘します(Moral Hazard Has No Place in Addiction Treatment. By Maia Szalavitz. March 1, 2024. The New York Times)。
 モラルハザードはもともと経済学の用語で、倫理観の欠如をいいます。たとえば政府が銀行の預金を保護すると、銀行はかえってリスクの大きい行動をとりモラルは崩壊する、などと議論されてきました。おなじように、ハームリダクションを進めると依存症者はかえって安心して麻薬におぼれてしまうという趣旨を、データを並べて主張する学者が出てきました。
 サラヴィッツさんは、こうした学者のデータは前提の部分で重大な誤りがあるなどと指摘しています。また多くの対抗研究があり、ハームリダクションを支持するWHO、CDCの勧告もある。そういう科学の積み重ねがあるから、経済学の分野はともかく、薬物依存でモラルハザードを唱えることはできないと反論していました。

 この議論でぼくが感じたのは、モラルハザードは一般社会が受け入れやすい概念だということです。だからかんたんに依存症の対策にも押し寄せてくる。多くの人が、ハームリダクションで安全が確保されるなら依存症者は麻薬をやめず、事態は悪化すると思ってしまう。ところが現実はそうならない。このズレに、依存症を理解するカギがあります。
 依存症者は、安全だから麻薬を打つとか、安全でないから打たないというような「常識」で動いているわけではない。ひたすら麻薬を打つことだけを考える、だからモラルハザードなんて概念は通用しないとサラヴィッツさんはいいます。依存症だった自身の経験を踏まえて。
 考えるべきは依存症ではなく、依存症を見る一般人の常識の方ではないか。ぼくには議論の全体がそのように見えます。
(2024年3月6日)