健常者と犯罪

 きのう、ケンドラ法というニューヨーク州の法律について書きました。
 ケンドラ法は精神障害者による犯罪への対策としてできたけれど、期待通りの成果をあげていない。そこで何度か「精神障害者の犯罪」という表現をしました。
 でもこういう表現だと、あたかも精神障害者は犯罪を起こす人というイメージになる。そんなことはないので、蛇足ながら補足します。

 たしかに精神障害者も犯罪を犯します。
 でもそれは健常者が犯罪を犯すのとおなじことです。より正しくは、「精神障害者は健常者とおなじように犯罪を犯す」と表現すべきでしょう。むしろ精神障害者の犯罪率は健常者より低いというのが、どの国でも見られる傾向です。
 すると、きっと文句が出てくる。
 ウソつくな、法務省の統計じゃ精神障害者の殺人など重大犯罪は、一般人よりずっと多いと。
 たしかに精神障害者の重大犯罪の率は高い。でもその対象の多くは家族など身近な人たちです。まったく関係のない他人を巻き込む通り魔的な犯罪は、ないとはいいませんが、心配するほどのレベルではない。そういうのは健常者のほうがよほど危ないのです。

 とはいえ、いくら理屈をのべても大多数の人の不安は消えないでしょう。
 よくわかります。ぼく自身、かつて精神障害者は危ないと思っていましたから。でも本人たちと出会い、偏見は消えました。理屈ではありません。彼らのあいだに入って肌で感じることができたのです、ぜんぜん危なくなんかないと。むしろ彼らといた方が、健常者といるよりよほど平和を感じることができる。
 ぼくが知る北海道浦河町の精神障害者はいいます。
 偏見差別大歓迎。
 誰にでも偏見差別はある。自分たちだって病気になる前はそうだった。そういう偏見差別を糾弾しない。だからまず、“そのままの自分たち”を見てほしい。
“そのまま”の彼らを見て、人は納得します。何だ、たいしたことないじゃないか、フツーの人だったんだ。

 ぼくらはできるだけ、生身の精神障害者と出会うべきです。
 精神障害者がどんどん町に出ていけば、差別偏見は弱まる。もっと町に出ていってほしい。でもなかなかそうはならない。ブツブツいったり挙動不審だったりすると、いたるところで避けられたり排除されたりしてしまう。生身の彼らといっしょにいることがないと、差別偏見はなくなりません。偏見がなくならないと、彼らは町に出ることがむずかしくなる。卵とニワトリの関係です。
 時間をかけ、できるところから少しずつ進めるしかありません。
(2023年12月27日)