分水嶺はどこか

 ベーシックインカムは、ユニバーサルインカムとかギャランティードインカムとも呼ばれます。名称はどうあれ、基本は社会の「全員」に「無条件」で「現金」を渡すこと。
 いまの社会保障は、たとえば低所得者に生活保護を支給したり、障害者に障害年金を渡したりするけれど、そうではなく、全員一律に無条件で現金を支給するのがベーシックインカム。この単純明快さがベーシックインカムの過激ですばらしいところです。
 活動家や学者は長年、その実現に向けて議論し、活動してきました。

ベーシックインカムを求めるデモ(ベルリン、2013年)
(Credit: stanjourdan, Openverse)

 けれど社会はついていけない。
 タダで金がもらえたら、誰も働かなくなっちゃう。一生懸命働いている人がバカみたいじゃないかと大反対です。あのフィンランドでさえ、国としての実施に踏みきれていない。そんなことしたら社会が壊れてしまう、と多くの人が思っているはずです。
 でも、じゃあいまの社会は壊れてないんですかと聞いたら、みんなことばに詰まるでしょう。生活保護も年金も税金も問題だらけ、格差は広がり、貧困は増えるばかり。いまのしくみが機能しているとは誰も思わない。

 そういうしくみのすべては、強いものの論理でできている。
 これがベーシックインカムの認識です。強いものがすべてを支配し、利益と力を得て弱いものの上に君臨する。ほとんどの人は、世の中ってそういうもんだ、しかたがないとあきらめてきた。でもそれはちがう、とベーシックインカムはいいます。
 強いものも弱いものも、働くものも働かないものも、誰もが人間としておなじです。能力や境遇に応じて差をつけない。だから全員一律、無条件の支給。それで誰も働かなくなるなんてことはないのです。

(Credit: Mister Higgs, Openverse)

 ワシントン・ポストの特集(22日)で印象的なのは、スタンフォード大学のクライン教授がベーシックインカムに条件をつけるかどうかでコメントしたところでした。
「条件つきで効果が上がることもあるし、上がらないこともある。だが条件をつけるのは、信頼、尊厳、自主、自由という基本的な価値を見逃すことになると思う」
 条件をつけるのは、人間に差をつけること。
 たとえばベーシックインカムを「自立心のある人だけに支給する」のであれば、自立心のない人は見捨てられる。それこそ強者の論理であり、倫理にもとるとベーシックインカム論者は考えます。条件をつけるのは、最初からその人を信じていないということでもある。

 ここに、ベーシックインカムをめぐる議論の分水嶺があると、ぼくは思います。
 人を信じるなら賛成できる。信じなければそんなの絶対にイヤだという。それはどういうことかをもう少し、ぼくなりに考えてみます。
(2022年11月1日)