地下鉄の悲劇

 悲劇はくり返される。
 地下鉄の車内で精神障害者が殺害されたり、逆に精神障害者が殺人を犯したりする悲劇が起きている。社会がもう少し精神科に目を向けないかぎり、こうした悲劇はくり返されるだろう。
 精神障害の当事者が訴えています(The Toughest Verdict in a Subway Killing. By Emmett Rensin. Oct. 22, 2024. The New York Times)。

エメット・レンシンさんの著作「On Goin Insane in America」

 訴えているのは、統合失調感情障害の文筆家、エメット・レンシンさんです。
 10代で発症、妄想にかられて自傷行為や暴力行為を起こし、退学して何度も警察の世話になったけれど、いまは向精神薬で安定した日々を送っている。
 そういう自分はラッキーだといいます。
 大部分の精神障害者は、自分ほどラッキーではない。薬が効かなかったり社会経済的に恵まれなかったりで、ホームレスになり自殺したりするものも多い。

 ラッキーでない精神障害者のひとり、ジョーダン・ニーリーさんが去年5月、ニューヨークの地下鉄で殺害されました。車内で騒いだためにほかの乗客に取り押さえられ、死亡したのです。加害者の裁判がはじまり、ふたたび事件が注目されている。

 レンシンさんはこの事件をふりかえりました。
 殺害されたニーリーさんは、地下鉄の事件以前に暴力行為で刑務所に入っています。収監中の15か月は、きちんと治療を受け服薬もする模範的な精神科の患者だった。ところが刑務所を出てからは治療プログラムもなく、支援者もいない。2週間でもとのホームレス状態にもどり、病状が悪化したのでしょう、地下鉄で騒ぎ殺害されてしまった。
 刑務所の外にも刑務所とおなじような支援があれば、ニーリーさんは悪化しなかったかもしれない。地下鉄の事件にも巻き込まれなかったのではないか。

 裁判は、事件の責任を問います。けれど事件の背後にあって真に問われるのは、まぎれもなく社会と精神障害者のかかわり方だとレンシンさんはいいます。
「われわれは狂気の問題を解決しなかった。個人の主権と社会の秩序を両立させることができなかったからだ」
 人は精神障害者をふくめて誰も、自分がそうありたいように生きる権利がある。一方、人は誰からもおびやかされずに生きる権利がある。その両立をはかるためには、精神保健への思いきった投資と政治的な意志が必要だ。それがないかぎり、悲劇はくり返される。

 あたりまえの主張ですが、それを精神障害の当事者が唱えているところに意味があります。日本でももっと、当事者が発言してほしいと願っています。
(2024年10月25日)