地域にいる不安定な精神障害者とどうかかわるか、これは複雑な問題です。
ぼくがきのう、この問題は「ぼくらがどう反応するか」だと書いたのは、飛躍してわかりにくかったかもしれません。それは精神障害者のあり方は、ぼくらの反応のしかたによって変わるという意味です。
ぼくらが乱暴になれば彼らも乱暴になる。
ぼくらが平和になれば彼らも平和になる。
ちょっと極端だけれど、そういうことじゃないだろうか。その意味で、ニューヨーク市議会のティファニー・カバン議員がいった、精神医療が問題なのではない、「まちがった人がまちがった対応をすることで、しばしば命にかかわる事態が起きてしまう」という指摘は核心を突いていると腑に落ちました。
精神障害者を身近に見ている人は、こういう言い方に納得しないでしょう。
急性期といわれる緊張や興奮が強い精神病患者は、そんな生やさしいもんじゃない。暴れる患者を日々鎮静させている医療職のみなさんにしてみれば、平和なんて幻想でしょ、ということになりかねません。それはわからないでもない。
ぼくが考えたいのは、そうした日々の対応の背後にある、精神障害への視線です。
暴れる患者はなぜ暴れるのか、そこにいたるまでにどういう経緯があったのか。
運悪く警察や搬送業者に力で押さえつけられ、病院に担ぎこまれた患者にどう対処するか。
いろいろなプロセスのなかで、周囲がどういうこころもちで精神障害を見ているかがとても大事だと思うようになりました。
暴れるな、静かにしろと抑えつけるとき、患者を否定していないだろうか。力でねじ伏せながら、最低限の敬意と共感を失っていないだろうか。
ほお、混乱してるのによくがんばってるな、たいしたもんだと思えるかどうか。極度の緊張をふっとほぐす、どんなことばがありうるのか。そのことばを懸命に探そうとするこころもち。
注射を打って鎮静させることに変わりはなくても、こちらのこころもようによって、何かが少し変わるのではないか。微風がそよぐのではないか。
ぼくがそんなことを思うのは、北海道の精神科クリニック、浦河ひがし町診療所のさまざまな光景を思い出すからです。そこでくり返される、ある種やわらかい対応によって、精神障害との関係性は少しずつ変わるものだということを知りました。すべての人びとのなかで、あいだで、管理や支配をなくさないかぎりそういう関係性はできないこともわかりました。
拘束衣も鎮静もいらない。ときどきプチ爆発はあっても、大爆発には至らない。
精神障害は、ぼくらがどう反応するかに応じて姿かたちを変える。浦河を見ながら、ぼくはそんなふうに思うようになったのです。
(2022年12月8日)