『分子革命』について、いつまでも書くわけにもいきません。でも、とても気になる部分がひとつあるので、最後にこれだけは記しておきたい。
「女になること」という一節、LGBTなど性的少数者をめぐる論考です。
フェリックス・ガタリは、リビドー、性的欲求についてこういっている。
・・・社会的身体の次元では、リビドーは要するに性と階級という二つの対立システムのなかにとらえられている。・・・それに対して有性的身体の次元では、リビドーは“女になること”へと流れをむけられる。(p240)

「社会的身体」とは、男性支配のもとにおかれた身体、そこでのリビドーは雄性的で、「女性は受動的、男性は能動的」とされ、強者対弱者の「排他的な二極世界」から、人ははずれることが許されない。
・・・そこからはずれたら待っているのは無意味の世界への失墜であり、また監獄や精神病院あるいは精神分析などにしか行き場所はない。(p241)
では、有性的身体はどうか。
・・・結局、女だけが有性的な身体になることが許された唯一の受託者なのである。あらゆる権力形態に内在する男根競争の激化にいや気がさした人は、可能なかぎり様々なやり方を使ってこのような“女になること”を身に引きうけていく。そうしてみてはじめて人はさらに動物にも宇宙にもなり、文字にも色彩にも音楽にも変成することができるようになるのだ。(p241)

だから同性愛は、“女になること”と不可分の関係にあるとガタリはいう。
論理ではなく感覚で、「まさにそのとおり!」といいたくなる。
かねておぼろげに感じていたことを、ガタリは挑発的なことばにしてくれた。深い思考の奥底から立ちあがるガタリの、ことばというよりは、思考やことばを超えた身体が、色彩と音楽にあふれた舞踏になって目の前に開示される。
性的少数者であること、LGBTであることの考察は、多数派と少数派、中心にいるものと周辺化されたものの関係性に広がる。自らの生と性を倫理的に生きようとするなら、ぼくらは“女になること”を選ぶのだろうか。
トランプ的なもの、あるいはあらゆる権力形態から逃れるために。
触発され、思考はとりとめもなく拡散します。
(2025年7月14日)