浦河を遠く離れて2

 きのう東京や横浜に「浦河的なものがない」と書きました。それは「オープンダイアローグ」に触れたときにも感じたことです。

 オープンダイアローグは斬新な、きわめて可能性のある試みです。でもそれが発祥の地、フィンランドを遠く離れ、東京や横浜で実践されるようになると、いつのまにかズレているのではないか、肝心な部分が抜け落ちていないか、そんなことを感じるのです。

 ぼくはオープンダイアローグを精神科の現場で見たことはありませんが、しばらく前に1日、ワークショップを経験しました。
 そこでぼくが感じたのは、オープンダイアローグを学びに来る人は、みんなではないけれど多くが「成果」を期待しているということでした。
 オープンダイアローグはどうしたらもっとうまくできるのか、どうしたら治療に生かせるのか。そんな質問が参加者のなかから出てきます。それは主催者の、どうしたらダイアローグが成立するのか、対話が深まるかを考える姿勢とは、だいぶへだたっている。

 乱暴な言い方になるけれど、相手を変えようとするのか、それとも自分が変わろうとするのか、そんなズレがありはしないか。
 オープンダイアローグを駆使してさまざまな問題を解決しようとしたり、問題のある人を変えようとするなら、たぶんそれは行き詰まる。そうではなく、対話を通して現れる予想外の展開を期待すべきではないだろうか。

 対話、ダイアローグは、あらかじめ筋書きを作ることができない。多くは時間の無駄で、おなじことのくり返しになる。けれども予想外の展開で、相手は、事態は、問題は、もしかしたら変わることがあるかもしれない。結果を予測できない、見通しのない賭けであることがダイアローグの本質でしょう。
 ダイアローグ、ことに精神障害者とのオープンダイアローグで、思いもよらない事態に遭遇したとき、ぼくの見方、考え方は変わります。ときには世界観すらも一変する。ぼくにとってダイアローグは見通しのない投企であり、自分が変わる契機でもある。他者を操作するツールではありえません。

 イタリアやフィンランドの経験を取りいれ、日本の精神医療は少しずつ変化しているといわれます。そうして学ぶことは無駄ではない。けれど浦河やオープンダイアローグの試みから思うのは、ことに精神医療にかんするかぎり、ぼくらはつねに現場にもどる必要があるということです。そこで答えよりむしろ問いを見出すべきではないか。そうしたやりとりのなかで、浦河も、オープンダイアローグも深化するだろう。そんなことをぼくは考えています。
(2024年7月25日)