異邦人余談

 野生動物と移民、精神障害者をならべて書くのは危険かもしれません。
 移民や精神障害者は動物とおなじかと、強い批判が出るでしょうから。それでぼくはカッコを付けました。「恐ろしい野生動物」、「危険な移民」、「何をするかわからない精神障害者」。いずれも事実ではなく、誇張されたイメージです。
 そういうイメージがどのように形成されたか、これがぼくの考えたいことでした。

 恐ろしい野生動物は、たとえば大型のヒグマ、グリズリーの場合、白人開拓民が作り出した誇張が多いと、カリフォルニア大学のピーター・アラゴナ教授たちは指摘しました。そして先住民文化の、別のイメージを対置します。
 凶暴なケモノとしてのグリズリー、対、尊敬すべき隣人としてのグリズリー、です。

 危険な移民というのはどの国にもある、一部住民の感情でしょう。大勢の移民のなかには犯罪者もまぎれこむだろうし、文化的背景がちがう異邦人に違和感を感じる人がいるかもしれない。でも移民の大半はぼくらと平和に暮らすことができる。

 精神障害者については、もういうまでもないでしょう。
「何をするかわからない」人びとというのは、ぼくらが勝手に作り出した虚像です。危険ということでいうなら、精神障害者よりむしろ健常者と呼ばれる人の方がよほど危険ではないかとぼくは思うようになりました。

 そうはいっても、この三者を恐ろしいと思う人がいる。
 かくいうぼく自身、ごく最近までグリズリーは危険だと信じていました。移民については、親が朝鮮人をさげすんでいたことに、子どものぼくはなんの疑問も抱かなかった。精神障害者は危険だと、社会人になってからもしばらくは思っていたものです。
 そういう思いこみから少しずつ抜け出せたのは、さまざまな当事者との出会いがあったからでした。なかでも決定的だったのは精神障害者です。彼らと出会うことでぼくは、ほんとにビョーキなのは健常者ではないかと思うようになりました。

 だからといって、誤解と偏見から自由になったわけではありません。自由になるためには他者と、異邦人と、野生動物との、さらなる出会いを重ねるしかないでしょう。
 そのとき肝心なのは、自分を捨てることだと思っています。
 自分を基準にして見ていたら、他者は見えない。しっかりとした自分、確固たる信念なんてものがあったら他者には出会えない。だから自分を捨てる。いいかげんになる。そう心がけるのだけれど、これがなかなかむずかしい。他者をつい、事実より好ききらいで裁いてしまう。その危なさがあると自覚していることが、わずかな救いです。
(2024年5月9日)