縁なき衆生

 精神科のミーティングは、祈りの場に似ている。
 長年、北海道で浦河ひがし町診療所のミーティングを見てきたぼくは、そう思うようになりました。参加者がこころのなかを見つめ、「降りてゆくミーティング」になったとき、それは「祈り」と地つづきになると、このブログにも書いています(2023年2月13日)。
 そういうミーティングを、ぼくがいま住んでいる横浜でも実現できないだろうか。最近ときどき考えます。
 降りてゆくミーティング、祈りと地つづきになるような語りの場が、ぼくらには必要ではないか。それがないと魂が枯れてしまうような気がする。

『ケアの哲学』
(ボリス・グロイス著、河村彩訳、人文書院)

 そんなことを考えたのは、『ケアの哲学』(人文書院)という本を読んだからです。この本の冒頭で、著者のボリス・グロイスさんは指摘しました。
「現代社会において・・・医療は宗教の場を占め、病院は教会に取って代わった。魂よりもむしろ身体が、制度化されたケアの特権的な対象なのである」
 そのすぐ先で、「健康は救いに代わるものである」というフーコーの言も引用している。
 ぼくらはいまはもう、教会(寺や神社)に通って「救い」を求めない、病院やクリニックに通い「ケア」を、「健康」を求める。そうしたしくみを不断に進める社会、経済があり、国が、文明がある。国家が管理するぼくらの身体、健康。バスの運転手が「止まるまで席を立たないで」とくどくいうのも、つまりはそのひとつの現れなのでしょう。

 かつて祖父母が寺や神社に通ったように、ぼくらは病院や保健介護施設に通う。
 かたや医療、かたや宗教。どちらも金を払い、すがれば助けてくれる(かもしれない)。病院は教義を教えないけれど(でも健康を絶対視するのもひとつの教義だと思うけれど)、また寺は治療はしないけれど(かつて医療は宗教と同義だったはずなのに)、人を救おうとするところであることに変わりはない。そのはじまりにおいて、あるいは立て前の上では。

 ケア、という概念を通してみると、このふたつはつながってきます。手当をし、薬を出して身体をケアする医療。教えを説き、帰依を促して魂をケアする宗教。もしも医療が身体ではなくこころをケアしようとしたとき、もしも宗教が魂だけでなく身体をもケアするとき、渾然一体とした領域が出現するでしょう。
 そのあわいに、精神科のミーティングはあるのではないか。

 ぼくは降りていくミーティング、祈りと地つづきのような語りあいが、自分の住む地域でもできないかを考えました。それはぼく自身、魂のケアを求めているからでしょう。何しろぼくは度しがたい、救いがたい存在なので。
 でも、そもそもケアって何だろう。『ケアの哲学』を読みながら、考えはまとまらず散らかるばかりです。
(2023年8月29日)