この夏以来、何度か制度的精神療法について書いています。
この療法を実践するフランスのラ・ボルド病院と、北海道浦河町のつながりを考えるからです。ぼくは浦河の精神科を長年取材したけれど、フランスにも浦河とおなじような「療法」があると知って驚き、ひじょうに興味をひかれました。
ところが、そんなことはもう10年以上前に気づき、論じていた人がいたのですね。
美学研究者で、京都大学にいた嶋田久美さんです。ラ・ボルド病院と浦河べてるの家を「臨床現場の表現活動」という観点からとりあげていました(注1)。
2012年、まだ浦河ひがし町診療所ができる前に書かれた論文です。いまならラ・ボルド病院と、べてるの家ではなくひがし町診療所を取りあげたかもしれません。
どちらも精神科臨床の場であり、かつ芸術表現の臨床の場でもある。
どちらも世間一般でいう治療や芸術の概念を外れている。一見、芸術療法的なことをしていながら、ぜんぜん芸術療法なんかじゃないといっています。
ラ・ボルド病院も浦河も、治療や表現の境界を踏み越え、揺るがしている。
「表現行為は治療者―患者という二者関係に還元されえない、場と集合性の問題として捉えられ」、かつ「外部のネットワークへの開かれた可能性を呈している」と嶋田さんは指摘します。
治療者と患者は対等で、治療や表現の枠組みは集団性のなかで超えられてゆく。そこに現れる多様性はつねに流動し、特定のモデルやイデオロギーにはならない。
「なぜなら、ドゥルーズが指摘するように、ラ・ボルドやべてるは、それぞれにひとつの多様体をなしており、そのなかで様々に作動しているプロセスは、超越的な価値によって評価されるものではなく、内在的な基準によって吟味されるべき性質のものであるからだ」
ラ・ボルド病院やひがし町診療所は、多様だけれど権力構造を持たない。支配や抑圧にならない。あるいはそうならないよう、つねに流動し変わっている。
それを「吟味」するのは、参加する一人ひとりで、統一された評価や基準はありません。だから外部から見ると確固たる信念も理論もなく、何もしていないかのように感じられてしまう。ラ・ボルド病院のジャン・ウリ院長は、かつて訪問者にいったそうです。
「ここに来ても、何もみるものはない」
あなたが期待するようなものはなにもない、という意味です。含蓄の深いことばです。
浦河にもまた、何も見るものはない。もしも人がそこに期待をこめてやってくるならば。
ひがし町診療所の川村敏明医師はそれを、「答えがないぜいたく」といっていました。
(注1)「「装置」としての表現活動 ――ラ・ボルド病院、べてるの家を例として――」(第62回美学全国大会で2011年に口頭発表した内容を、美学第63巻1号、2012年6月30日に掲載)。
(2024年12月25日)