言語エリート主義が批判されています。
言語は人間に固有のもので、言語こそが人間と動物を明確に区別する、というのが言語エリート主義。17世紀の哲学者、デカルト以来の信念でした。それが動物や脳についての最近の研究で揺らいでいる。人間、そんなにえらくないぞという話です(The Animals Are Talking. What Does It Mean? Sept. 20, 2023. The New York Times)。
言語学の世界には、むかしからチョムスキー派と反チョムスキー派の対立がありました。ちょっと乱暴にまとめれば、チョムスキー派は言語は人間の本能だといいます。生まれつき備わった人間だけの能力で、人間だけが言語を使うようになった。反チョムスキー派はそんなことはない、言語は習得されるものだといいます。
だからなんなんだといいたくなるけれど、地球温暖化が炭素のせいかどうかというくらい、重要なちがいらしい。
本能説をあおったのは、2001年の「文法遺伝子」の発見でしょう。人間のDNAのなかにFoxP2と呼ばれる遺伝子があり、この遺伝子が損なわれた人はうまく言語が使えないという報告がありました。これこそが言語の起源かと騒がれた。
でもまちがいでした。FoxP2はその後、げっ歯類や鳥類、ネアンデルタール人にも見つかったからです。そもそも言語を使う能力が、単一の遺伝子で決まるなんてことはありえない。
進化生物学者のテカムセ・フィッチ博士は、従来の言語論を根本的に見直そうとしています。言語は泳ぐとか料理をするといった単一の能力ではない。ものごとを注意して見る力、それについて考え、仲間と共有する心理的な力、さまざまな現象の規則性を見い出す認知能力、さらにはそれを声にして伝える身体性など、多くの能力の総合です。
重要なのは、そうしたさまざまな能力をほかの動物も持っていることでしょう。言語を作る力について、人間と動物のあいだに明確に区別できる境界線はありません。シジュウカラやクジラやサルなど、さまざまな動物が言語を使う。動物と人間の言語のあいだには断絶ではなく、連続性があるのです。
とはいえ、人間ほど複雑な言語を使う動物はいない。そのことをどう見るか、専門家のひとりはいいます。
人間の言語は、ゾウの長い鼻や、コウモリの超音波とおなじことだ。
進化の過程で、たまたまその形質を発達させたにすぎない。人間は大きな脳を持つようになり、象の鼻のように特徴的な人間の言語というものを発達させた。
万物の霊長みたいな言い方はやめたほうがいい。というか、そういう考え方をずらし、もっと動物とのあいだに仲間意識を持とうということでしょう。
(2023年9月29日)