腐敗した独裁者、貧困と疫病、混乱。
アフリカにはそんなイメージがつきまといます。それは西欧化、近代化に失敗したからだと思いがちですが、そんなふうに見ていたら現実はつかめない。アフリカの混乱(と見えるもの)は、むしろ為政者が選び取ったものだった、そう見ればあの大陸の別の姿が浮びあがるという考え方があります( Through a car window in a Nairobi traffic jam, a view of global economics. By Kenda Mutongi. October 11, 2023. The Washington Post)。
MIT、マサチューセッツ工科大学の歴史学者、ケンダ・ムトンギ教授がオピニオンのなかで紹介していました。
教授はケニアの首都ナイロビに旅行した経験を、エッセー風に書いています。乗り合わせたタクシーは交通渋滞で動かない、カーラジオの人生相談が延々とつづく。渋滞の車列に行商人が群がり、ポップコーンが売られ、日用雑貨がやり取りされる。
・・・アフリカでいま見られるのは、「構造化された混乱」だという専門家がいる。この大陸のエリート政治家が作り出し、あらゆる手段で維持しようとしている不正や腐敗のしくみだ。支配者はそこから多くを得るが、大多数の人びとは貧しいままだ・・・
ムトンギ教授は政治ではなく、混乱のなかで人びとがどう生きているかに目を向けます。
・・・ナイロビの路上にあるのは、貧乏人を巻き込んで機能する市民の想像力にあふれた実践のかずかずだ。ここでは警察ですら市民と持ちつ持たれつの関係を維持している。だから腐敗や賄賂が横行するが、彼らはそれを腐敗と思わない。ナイロビの路上で肝心なのは、人びとが関係しあうことであり、必要なものを手に入れることだ・・・
教授の論旨から外れるかもしれないけれど、ぼくはこれを「混乱した政治」と、政治システムの外部で生きる「民衆のしたたかさ」という二重構造と受け止めました。
腐敗した部分だけ見ると救いがないけれど、民はそんなものに関心はない。自分たちは路上で「関係しあう」ことで「必要なものを手に入れる」。生きるとは、モノやカネを求めることよりも、まず自分たちが関係しあうことなのだ、という呼吸が伝わってきます。
文化人類学者で立命館大学教授の小川さやかさんは、著書『その日暮らしの人類学』(光文社新書)でタンザニアの人びとを描いていました。その日暮らし。刹那的で救いがないように見えるけれど、そういう人たちの方が笑って安心しているように見えるのはなぜだろう。そんなことが書いてあったと記憶します。
「関係しあう」生き方に目を止めたムトンギ教授は、小川教授ととおなじ光景を見ていたはずです。それはぼく自身も、かつてケニアやジンバブエの路上で目撃した、どこかなつかしさすら覚える光景なのです。
(2023年10月19日)