前回、児童虐待で「根本は地域の力をつけること」と書きました。
地域が力をつければ、児童虐待はもうちょっとましな対処ができるのではないか。そう思ったのだけれどやや浅薄です。地域ってなにか、力ってなにか。
地域といったのは、しばらく前に「中上健次論」を読んだからです。渡邉英理さんの『中上健次 路地のビジョン』でした。

タイトルに惹かれる。中上健次を路地という観点から見るって、すごい。
中上健次はほとんど読んでいないけれど、異形の作家という印象があります。被差別部落の出身で、それが作品の重要な背景とも聞いている。地をはうような、けれどけっして暗くも未練がましくもなく、どこか飛び抜けた人の群れがありました。

(Credit: s9727, Openverse)
それが「路地なんです」といわれると、腑に落ちるものがある。
路地にはさまざまな人が、「規範的な近代家族の親族関係を複数的に裏切って」暮らしていると渡邉さんはいいます。
・・・路地の親とは、実のところオバ・オジ、イネ・アニなど「路地の大人ら全員」であり、「市民社会で呼ばれるような父親」や「母親」とは、「むしろ生物としての親」に過ぎない・・・
出自なんて関係ない、ごっちゃ。路地ではおとな全員が子どもすべてを育てる。
路地はまた、家のない人、家を追われた人が住みつく場所でもある。
・・・中上の路地とは、国家に抗い資本に抗う、脱国家的かつ脱資本的な志向性をもつ社会として構想されていたと言えるだろう・・・

ぼくらの想像を超えたところに、中上の路地はある。
地域や街や国の外側にあり、いまはもう容易には見いだせないけれど、たしかに人間の歴史に存在し、いまなお世界のどこかにありつづけている空間。先住民やノマド=放浪民、ゾミア=国に属さない人たちと、中上の路地はつながっています。
清くも、正しくも、明るくもないけれど、営々と受けつがれてきた命、家族、人の群れ。彼らがつくる「脱差別的で無支配で無権力の世界」。そんな「路地」がいまの日本にあるわけではなく、作ろうとしてできるものでもない。
けれど希求したい。路地を。路地的なものを。ぼくらが置かれている地域を、いくらかでも路地的にすることはできないものだろうか。
ツクツクボウシの声を聞きながら、はかなくも思います。
(2026年8月17日)
