私たちの人生は浅はかなものになっている。
幸福とは何かを論じて、哲学者がこういっています。
物質的にはゆたかになったのに、むなしさはなくならない。どうしてか。それは幸福が閉じているからだと(Our Idea of Happiness Has Gotten Shallow. Here’s How to Deepen It. By Kwame Anthony Appiah. May 3, 2025. The New York Times Magazine)。
アメリカの知識人が、日曜の午後にゆったりと目を通す「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」の特集は先週、幸福論でした。冒頭の一文を哲学者、クワメ・アンソニー・アッピア教授が書いています。目新しくはないけれど、味わいがありました。

教授は、幸福論のヨーロッパでの歴史をたどっている。
古代ギリシャでは、アリストテレスが幸福について「ユーデモニア」という概念を唱えました。たんに快楽を求めるのではなく、徳をつみよりよく生きること。健康、富、友人も大事だけれど、秩序だった社会がなければ人間は幸福になれない。
個人と社会、両方がまともでないと幸福になれないということですね。あたりまえだけれど。
21世紀になり、幸福は物質的ゆたかさになったかのようです。物質だけでなく、消費者の心や気分までもが資本主義のもとで「幸福」に商業化されている。
「ソーシャルメディア上の幸福は、上手な照明によるエステであり、抹茶ラテ、高級ロウソク、正しい呼吸法だ。脳内ドパミンの、その時どきのちょっとした噴出。幸福の追求はとどまるところを知らない」
幸福ではなく欲望。だから限度がなく、つねにむなしさがしのびこむ。

個人の欲望に閉じられた幸福から抜け出そうとアッピア教授はいいます。人とのつながりと責任、かかわりを失わずに。
近所の人が病気になったら、代わりに買い物をしてあげる。孤立している人がいたら声をかける。そのようにしてつながろうとすること。何をもっているかではなく、何を与えることができるか。そこに、広い意味での幸福が生まれる。
「よき人生とはたったひとつの型に収斂するものではなく、無数の型が存在すると私たちは知っている。幸福は最大化ではない。多くの個人がそれぞれに選んだ生き方が確実に共存できるよう、この世界を作っていくために力を合わせることだ」
自分ひとりだけが幸福になることはありえない。
そして幸福は、ひとつの型になることはありえない。
教授がいっているのは「多様性を否定するトランプ」の否定でもあるのですね。
(2025年5月7日)