もしも町中でイラン人から「女性!」と声をかけられたら、すかさず「命!」「自由!」とこたえたい。
それが、いまイランで立ち上がっている人びとへの連帯になるから。
そう思う自分がいる一方で、だからなんなんだとあきらめている自分がいます。
この世の中は理不尽なことだらけ。どうすることもできないと思っていても、映像を見ると別な思いがわきます。たとえばこの写真。10月1日、オランダのアムステルダムの光景です。
イランの弾圧に抗議する人がこんなにたくさん、町にあふれている。
アムステルダム以外にも、ベルリンやストックホルム、ロンドンなど、ヨーロッパのあちこちでたくさんの人がイランの強権政治に抗議しています。そういう映像を見ると、ぼくの知らないところで世界は確実に動いていると思う。そのことに驚きあらためて関心がわきます。ことばで理解していることと映像が伝えることは、並行し重なりながら別な形でぼくに訴える。
オーストラリアのメルボルンからの映像は、イランの事態を要約していました。
歩道に座った人が持つ横断幕には「クソ食らえ、イラン独裁政権。女が何を着るか命令するな」とある。右上には「女性、命、自由」と英語とペルシャ語で書いてあります。
イランでは9月、スカーフのかぶり方が悪いといわれたひとりの女性が“道徳警察”に逮捕され、取り調べで死亡しました。これに多くの人が怒り、ことに女性が立ち上がった。治安当局との衝突ですでに300人以上が死亡、1万人以上が投獄されたといわれます。この事態に、イラン本土だけでなく海外でも抗議が高まっている。
女性が抑圧の象徴となっていたスカーフを燃やし、髪の毛を切った。メルボルンにもそういう女性がいました。
こういう動きのすべてを象徴しているのが「女性、命、自由」という標語です。
ウクライナ戦争の象徴がいろいろな意味でウクライナ国旗になっているように、イランの思いはこの標語になっている。
また別な衝撃もありました。カタールで開かれていたサッカーのワールドカップで、イラン代表チームが国歌を歌わない、という抗議行動に出たのです。この抗議メッセージはすべてのイラン人に届き、独裁政権にとってかなりの打撃だったでしょう。「国歌不斉唱」の映像は、著作権があるのでこのブログには引用できませんが。
「命!」「自由!」と叫ぶ機会は、たぶんぼくにはありません。でもいつかどこかでイランの人に出会ったら、そのスローガン知ってますよと伝えたい。イラン国歌は、知っていても歌いませんよと伝えたい。
(2022年11月25日)