消えない記憶

 8年たっても、あの記憶は私を苦しめる。
 精神科の患者が、強制的な身体拘束の経験をアメリカ精神医学会の総会で語りました。身体拘束を当事者が公開の場で語るのはきわめてめずらしいことです。そういう場面が設けられたことは、精神科医のなかにもこの問題を真剣に考えている人がいるということでしょう(In the House of Psychiatry, a Jarring Tale of Violence. By Ellen Barry. May 21, 2024. The New York Times)。

 身体拘束を受けたのはマシュー・トレイヤさん、32歳。高校1年で変調がはじまり、家で爆発するようになりました。2年後には強迫性障害と診断されている。大学で再び不安に襲われ、休学。自宅の地下室で胎児のように丸くなり、抗不安薬を飲みながら自分を苦しめる薬や、そういう薬を出す治療者を問題とするようになりました。事態は悪くなるばかりだった。
 父親は、彼が「医者に責任を認めさせようとこだわっていた」といい、また精神科医は、「患者は医者をどなりつけるか、殴ってやろうと考えていた」と記録しています。
 2015年、問題の医者と対決しようと外に出たところで、トレイヤさんは拘束されました。

 はじめは、父親とともにおとなしく精神科の救急室に入っています。
 けれど病院側は高度の警戒態勢をとっていた。精神科医はトレイヤさんに「強迫性障害とうつ病、境界性パーソナリティの経歴」があり、「さしせまった殺意が認められる」と判断しています。このため抗精神薬ハルドールを処方すると告げた。「ハルドール」ということばでトレイヤさんは一気に緊張します。いやだ、絶対にそんな薬は飲まない。
 その後起きたことは、多数の警備員の登場。格闘。ペッパースプレーを使っての制圧。裸にされベッドに四肢を縛りつけられての拘束、ハルドールの注射。この間トレイヤさんは、薬を打つな、放してくれと叫び、もがきつづけている。

 身体拘束の悲惨な記憶は、消えることがない。
 トレイヤさんは、フットボールをしたくても相手が注射器を持って襲ってくる想念に襲われてしまう。そういうつらさを、ときに声をつまらせ、涙ながらに語りました。トレイヤさんを紹介した精神科医のサミュエル・ジャクソン医師はいいます。
「彼に話をしてもらうのは、われわれがしている仕事のもっとも醜い部分を映し出す鏡を見ることになる」

 精神科の現場では、身体拘束は仕事の“暗部”ともいわれます。けれど患者にとってはトラウマです。身体拘束を受けた患者の25%から47%に、PTSDの症状が表れている。身体拘束を減らすためには、スタッフの増員や時間をかけた診療が必要です。けれどまず当事者の声を聞くことにしたのは、自分たちの仕事の暗部を少しでも醜くないものにしようとする精神科医がいたからでしょう。
(2024年6月7日)