ガタリは狂気の前で途方に暮れたけれど、そこから常人のおよばない思考を深めたにちがいない。
そのあたりのいきさつは、一端が『分子革命』のなかの「欲望と日常生活のミクロ政治学」にうかがえます。ガタリはある女性患者の「不安神経症の発作」について、「人生のある時期にしかあらわれない分裂症的な徴候」だろうといっている。
・・・思春期の記号的構成要素(世界との新しい型の関係、未知を前にしての不安、周囲からの抑圧など)がそうした分裂症的な徴候とかかわりあうのだから、分析はそれ相応の権力構成体――リセや職業学校、スポーツ・クラブ、レジャー組織などの権力――にむけられねばならない。(p175)

ここだけとりだして読んだら、なんのことかわからない。
もういちど読み直してみると、これはある精神分析者が報告した症例にガタリがコメントした内容だとわかる。ガタリは、彼女の症状には思春期のさまざまな不安や、周囲からの圧力が関係しているから、「分裂症的な徴候」を分析するには、彼女をとりまく「権力構成体」にむかわなければならないという。
ここでいう権力構成体は、行政や教育機関といった明示的な権力組織だけでなく、ぼくらの無意識までも支配するすべての社会的なしくみをさします。
不安神経症の発作は、そうした権力構成体の分析によって明らかにされなければならない。
つまり、不安発作は神経の変調や脳の病気ではなく、社会環境が引き起こすものか。ガタリは、精神病はこの社会が起こすものだというのだろうか。

いや待てよ、と立ち止まります。
そうではない。その少しあとで、ガタリは、権力構成体はぼくらに「意味をおしつける」ともいっている。ぼくらが精神病やその症状を考えるとき、そうしむけられて、その「意味」を考え「させられている」のかもしれない。
精神病は社会環境が引き起こすものだと、わかりやすくいいきったとき、ガタリはもうそこにはいない。
・・・分裂病者を治療するというのは何を意味するのだろうか? おそらくわれわれが分裂病者を治療するためにいるという以上に分裂病はわれわれに呼びかけるためにいるのではないか。(p189-190)。
呼びかけとは何か。権力構成体を知ること、権力構成体によって構成されたぼくら自身を知ること。分裂症、スキゾフレニーはそう問い、呼びかけているのだろうか。
(2025年7月11日)