声にならなかった声

 映画『オッペンハイマー』がアカデミー賞を獲得しました。
 アカデミー賞のなかの作品賞、この1年のベストワンです。その論評や解説はもうあきるほど出ているけれど、ひとつ異色のコラムがありました。「アメリカ人被爆者」の視点で書かれたコラムです(‘Oppenheimer,’ My Uncle and the Secrets America Still Doesn’t Like to Tell. By Ariel Kaminer. March 11, 2024. The New York Times)。

 書いたのはニューヨーク・タイムズのコラムニスト、アリエル・カミナーさん。叔父がネバダの核実験場にいて被爆し、のちにがんで亡くなっています。カミナーさんは近親者の立場から『オッペンハイマー』を見て、最初の核実験のシーンをこういっています。
「爆発のシーンは見ていてこころが締めつけらた。みんな野外映画を見るような気楽さでながめている」
 防護服もなく、科学者たちはサングラス代わりに小さなスクリーンを目に当てているだけでした。それがどれほど危険か、誰も理解していない。

最初の核実験が行われたトリニティ・サイト
(ニューメキシコ州 Credit: Danapitis, Openverse)

 兵士たちは核爆発のクレーターに向かって行進し、パイロットはキノコ雲のなかを飛んだ。その後ネバダ州の核実験場には、陸軍の軍楽隊も行って演奏している。その軍楽隊の隊長が、カミナーさんの叔父、リチャード・ギガーでした。

 叔父は退役後、下垂体がんを発症、手術したけれど3か月後に亡くなっている。
 叔母は地元紙の記録を調べ、図書館で放射線被爆の文献を探しました。最初は日本の資料を翻訳してもらわなければならなかった。退役軍人省に何度も訴えて追い払われたあと、7年かけて、夫の死は「おそらく被爆によるもの」と認めさせた。それで受け取れた補償はわずかなものでした。

 1950年代までの核実験に動員され被爆したアメリカ兵は、のちにアトミックベテラン、退役原爆兵とよばれるようになりました。彼らは秘密をもらしてはならないといわれ、自分たちの経験を家族にも医者にも語ることができなかった。どれほどの被爆があったか、健康被害があり治療を受けていたか、実態は把握できていない。カミナーさんはいいます。
「叔母のような調査をした家族がどれほどいるかわからない。被爆は子どもや孫の代にまで影響することがあるから、調べなければならないのにもう時間は残されていない」

 語られることのなかった、核の裏面史でしょう。
 カミナーさんは映画『オッペンハイマー』についていいます。
「広島長崎の被害を見せなかったと批判されているが、私は正しい選択だったと思う。これは結局のところ娯楽作品であり、その一シーンとして被爆者の実態を加えるようなことはすべきではない。被爆者を傷つけることにもなる」
 彼女は、いまなお私たちは最初の爆発の風下にいる、ともいっています。
(2024年3月14日)