精神病を「クスリ」で「なくそう」とするアプローチ。
これはアメリカでも日本でも、おなじかもしれません。「クスリではない、地域だ」といっても、また「なくすのではない、ともに生きるのだ」といっても、社会の主流にはなかなか通じない。いったいどうすればいいのか。
作家のダニエル・バーグナーさんが、精神科の強制的な治療とクスリ中心の医療を批判したことはこのブログでも紹介しました(6月8日)。ニューヨーク・タイムズに載ったオピニオンです。ぼくはごく当り前と思ったけれど、大部分の人はそうは思わなかったらしい。バーグナーさんのオピニオンへの読者の反論に、それが表れています(Approaches to Mental Illness. June 17, 2023. The New York Times)。
念のために確認しておくと、バーグナーさんはクスリが要らないといっているのではない。精神科の医療がクスリ中心になっていることを批判している。あるいは医療、治療が中心になっていることに疑問を呈している。そのことを踏まえた上で、バーグナーさんのオピニオンとこれに対する読者の反論を見ると、精神病をめぐるアメリカの状況がおぼろげながら浮かびあがります。それは日本の状況ともかなりよく一致するのではないか。
バーグナーさんの見方に「よくぞいってくれた」と感謝する当事者もいれば、「クスリなしでやれなんて、精神科の現場を知らない」と怒る医師もいる。「強制はいけない? 暴れる家族をどうすりゃいいんだ」と憤る親もいる。「抗精神病薬が70年進歩してないなんて、エビデンスを欠いた言い分だ」という専門家もいる。
こうした議論のなかでしばしば出てくるのは、「暴れる患者をどうするのか。やっぱり強制的な医療とクスリが必要だ」という主張です。
一見当然だけれど、ここでぼくは考えてしまう。
肝心なのは、それ以前じゃないのか。暴れるまでに、本人だけでなく家族や周囲の人びとが精神障害という現象にどう向き合ってきたか。
北海道浦河町のひがし町診療所というところで、ぼくは長年多くの精神病とされる人たちを見てきました。そこでは爆発する人がほとんどいなかったし、いても大した爆発にはならなかった。暴力を引き起こすような空気がないか、あるいはとても希薄だったのです。
それはどうすれば可能なのか。
暴れる患者をどうするかも大事でしょう。でもどうしたら暴れる患者が出ないような「場の空気」を作ることができるか、そこがもっと大事なことじゃないか。夢物語といわれるかもしれないけれど、実際にそういう地域があるのだからできないわけはない。
アメリカの議論から横道にそれて、ぼくが考えたのはそんなことでした。
(2023年6月21日)