先週、グリズリーという大型のヒグマについて書きました。
カリフォルニアで、絶滅したグリズリーを再導入して復活させる計画です。
グリズリーはもっとも危険なクマで、再導入なんて危険きわまりない。そう思ってぼくは驚いたけれど、それはグリズリーへの偏見のあらわれだったかもしれません。
グリズリー再導入計画を語っているのは、UCSB(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)の研究者グループです。
そのひとりの書いた本が、このほど邦訳されました。ピーター・アラゴナ教授(環境学)の、『都市に侵入する獣たち クマ、シカ、コウモリとつくる都市生態系』です。
5月4日の朝日新聞書評によれば、アラゴナ教授は人間が快適に暮らす都市の環境は、野生動物にとっても快適な環境になっているといいます。だから彼らが都市に出没するのは当然の帰結らしい。
そういう野生動物は、殺せばいいというものではない。「駆除を続けるのはコストが高い」から勧めないと教授はいいます。ちょっとしたくふうで「気をつけて距離をとっていれば、大きな事故はめったに起きない」、だから共存しよう。
では、クマとどう共存できるのか。
ここには、社会の安全をどこまでどう確保すべきかという難問があります。そんな難問はここでは議論しきれないけれど、ひとついえるのは単純明快な解決法はないということでしょう。そのときその場で、とりあえずの対策を講じるしかない。
そこで参照すべきは、先住民の知識と知恵ではないか。カリフォルニアだったら何千年にもわたるテジョン族とグリズリーの共存の歴史、日本だったらマタギやアイヌとクマのかかわり。テジョンもアイヌも、クマを「獰猛で恐ろしい野獣」とはみなかった。森の住人としてうやまい、精神的なつながりすらおぼえていました。どうしてそんなことができたのか。
もしもぼくらが先住民のようにクマに尊敬の念を抱いていたら、森のなかで出会ってもあわてたり逃げたりせず、じっと立ち止まることができるかもしれない。
一方、クマを「恐ろしい獰猛な野獣だ」と思い込んでいたら、パニックを起こすかもしれない。パニックを起こした人間は、逆にクマを刺激する。そういう反応で多くの悲劇が起きたのではないか。先住民だったらそこでどうするだろうか。
いまの先住民は都市化されているから、もはやクマと対峙できないかもしれない。でも彼らの文化にはきっと貴重な言い伝えが残っているはずです。そういう先住民の知恵を借りながら、野生動物との距離のとり方をくふうすれば、「大きな事故」をゼロにはできなくても、許容できるほどには少なくなるのではないか。そんな気がします。
(2024年5月7日)