依存症について、ニューヨーク・タイムズに載ったオピニオンを読みいろいろ考えました(David Sheff. April 12, 2023. The New York Times)。
作家のデビッド・シェフさんが論じているクラフト(CRAFT)という依存症からの回復プログラムは、かつてのように依存症を力で抑えようとするのではなく、かといって放置するのでもない。それはシェフさんの息子が立ち直ったきっかけにも当てはまります。
シェフさんの息子は重度の麻薬中毒者で、どんなに家族が説得しても治療を受けず、ホームレスになりました。ある日、住居侵入で捕まったとき、警察官が彼に聞いたそうです。刑務所に行くか、回復プログラムを受けるか、どっちにするか。息子は回復プログラムを選び、そこから年月をかけ立ち直ったという話でした。
幸運な出会いだったといえるでしょう。息子はここで回復プログラムという「強制」を、「自立」的に選んだ。大事なところで自立が守られた格好になっている。しかもシェフさんによれば、それは科学的なエビデンスにもとづく回復プログラムだったようです。
「依存症者は、そのための訓練を受けた専門家にケアしてもらわなければならない。認知行動療法や緊急時の対処法が用意されているところ。依存症の適切な治療が行われ、かつそのほかの精神疾患も診ることができるところでなければならない。依存症者の40%は、同時にほかの精神疾患も抱えているのだから」
クラフトというアプローチは、シェフさんの書いたものを読むかぎり、強制と自立がたくみに織りまざった方式のようです。自立を尊重した強制、あるいは強制を自ら選び取る自立。その両方が微妙に入り組んだ、いわゆる「中動態」になっているのではないか。
能動態でも受動態でもない中動態。
回復プログラムを受けている人は、それを「受けた」のか「受けさせられた」のか判然としない。麻薬をやめたけれど、自分でやめたのか、誰かに、何かにそうさせられたのか、「した」のか「された」のかよくわからない。そういう中動態の形でものごとが進むのではないか。ぼくはそんなふうに想像し、そうであるならクラフトは依存症者の対応に、これまでよりも可能性のあるアプローチだろうと思いました。
この、どっちがしたのかわからないというかかわり方は、依存症だけでなく多くの精神疾患とのかかわりの核心に現れるものです。
そのことをぼくは北海道の浦河町にいる精神障害者と、彼らにかかわる人びとからくり返し教えてもらいました。誰がそうしたかわからないけれど、ものごとはそれで進んでいく。そういうかかわりのあり方。クラフトという依存症の回復プログラムを見ると、この既視感を覚えます。
(2023年5月12日)