ペド、という言い方があります。
あいつはペドだ、というのは人間のクズだという意味になる。
ペドフィリア、小児性愛者のことです。幼い子どもを性的な虐待の対象にする。どうしてそんな残酷なことができるのか理解不能だけれど、とにかく世の中にはそういう人がいる。
そのペドをテーマにしたミステリがありました。
レイフ・ペーション作『許されざる者』、ミステリ界では有名な「ガラスの鍵賞」を受賞するなど数々の賞に輝いた北欧ミステリの名作です。
退職した警察幹部が、20年前に迷宮入りとなった幼女殺人事件の再捜査に着手する。犯人は平凡な市民で、かつ小児性愛者だった。
9歳の少女が強姦され殺された事件です。少女を知る誰もが強い怒りを覚え、犯人を見つけたら殺してやりたいという。目をくり抜いてやる、殴り殺してやる。何人ものそういう語りに引きこまれ、そうだそうだ、やっつけろと同調しながら読んでしまいます。
でもだんだん、座りの悪さを覚えました。
ペド、悪の権化。そういう人間は全否定してこの社会から消せばそれでいいんだろうか。
たしかに許せない。でも、誰かがどこかで止められなかったのか。止める方法はなかったのか。カウンセリングでも教育でも、あるいはそのほかの方法ででも。
エンタメ小説だから、そんなことに文句をつける方がおかしいとは思います。でも、世の中は小児性愛者だけでなく、たとえば若い女性であれば誰でも殺害したくなるような“異常者”もいる。多数派の常識からは理解できないそういう人たちを、理解できないからという理由でただ葬ってしまえばいいのか。
座りの悪さはそこにあります。
幼児性愛者にあるのは、けっして「愛」なんかではない。きっと自分ではどうにも制御できない衝動です。依存症の一種でしょう。だとするなら、ただやめろといっても効果はない。手間をかけ、時間をかけ、本人がその衝動に向き合うのを手伝うしかないでしょう。薬物依存やギャンブル依存の人たちを思い出しながら、そんなことを考えます。もっとも彼らは、ペドといっしょにされたら迷惑だというかもしれないけれど。
理解できないからといって“異常者”をこの社会から見えなくしてしまうのではなく、どうすればいいのか思い悩むことが大事なんじゃないでしょうか。じゃあ自分の小さい子が被害を受けたらどうするかといわれたら、ぼくはウッとことばに詰まるけれど。
エンタメ小説ではなく現実の世界では、こうしたことについてはっきりとした主張を明確に述べるよりもむしろ、くちごもり、考えこみたいのです。
(2022年11月10日)