ネパールに、話者がたった1人の少数言語があります。
ネパール中部のダーン地区にあるクスンダ語です。周辺のどの言語とも類縁関係がなく、バスク語やアイヌ語とおなじ「孤立した言語」らしい。最後に残った1人の女性話者、カマラ・カトリさん(48歳)がいなくなれば、この言語は地上から消滅するでしょう。少数言語に興味のあるものとしてはとても気になる話です(The language that doesn’t use ‘no.’ August 22, 2022, BBC)。
クスンダ語は、言語学的に見ると世界に類のない言語のようです。この言語には「はい」や「いいえ」のような肯定や否定のことばがない。また「何々ではない」という否定形もないらしい。
それでよく言語として成立するものだと思うけれど、驚くべきことにそれでもちゃーんと成立している。
言語学者によれば、クスンダ語は文脈を追って語ることで否定形を実現する。たとえば「私はお茶を飲みたくない」というとき、飲むという動詞は使うけれど、その動詞を別な形に変える。「飲む」の代わりに、飲むことはありえないような動詞に変え、それで事実上の否定形にしているらしい。単純なように見えて、じつは高度に洗練された言語の形なのかもしれない。
また方向を示す単語もありません。「右」も「左」もなく、「そこを右に曲がって行く」は「そっちに曲がって行く」ですませる。それでも会話は成立するらしい。
否定形がないとか、右や左がないからといって、クスンダ語が原始的なことばだということにはなりません。日本語や英語とは別のきわめてユニークな文法構造を備えているからで、その解明は言語学者に任せなければなりません。もしかしたらそこには、手話言語が発見されたときのように、人間の認知能力の新たな可能性が発見されるかもしれません。
とはいえ、ネイティブスピーカーが1人しかいないのでは、クスンダ語の解明はむずかしい。
2011年の統計では、クスンダ人の数は273人。その子どもたちがいま学校でクスンダ語を学んでいます。少数民族の保護政策のおかげですが、それでクスンダ語が「復活」することはないでしょう。なぜなら子どもたちはすでに他の言語を第一言語としており、その子たちが身につけることができるのは「第二言語」としてのクスンダ語だからです。
第一言語は、新生児しか獲得することができません。
第一言語としてのクスンダ語は、第一言語の話者が新生児に自然に覚えさせてはじめて継承される。でも第一言語話者がカマラ・カトリさんひとりでは、これから新生児にクスンダ語を伝えることはおそらくできないでしょう。クスンダ語はもうじき、アイヌ語とおなじ運命をたどることになると思います。
(2023年1月6日)