5月1日、ニューヨークの地下鉄で殺人事件がありました。
車内でひとりの精神障害者が騒ぎだし、周囲にいた乗客が腕力で押さえつけたら死んでしまったという話です。押さえつけた人は警察に事情を聞かれたけれど、無罪放免になりました。さまざまな議論が起きています(How Two Men’s Disparate Paths Crossed in a Killing on the F Train. May 7, 2023. The New York Times)。
死亡したのは精神障害者のジョーダン・ニーリーさん30歳、黒人男性のホームレスでした。過去数十回、迷惑行為などで警察に逮捕されています。事件があった日も地下鉄の車内で、食べるものがない、飲むものもない、もう死んでもいいと大声で叫んでいました。近くにいた人が何人かでニーリーさんを取り押さえたけれど、そのうちのひとりが”首絞めの技”を使ったのでニーリーさんは死亡したとされます。
これは、あきらかにやりすぎだ。最初はそう思ったけれど、その後の記事を読んで考えてしまいました。ニーリーさんはこれまで何度も精神科にかかり、“精神障害ホームレス”としてワーカーの支援も受けている。でも暴力的になることがあり、2年前には路上で67歳女性に顔の骨を折る重症を負わせています。有罪となったけれど、更生プログラムを受けることで刑務所行きを免れました。ところがこの更生プログラムからも無断で逃げ出している。そして地下鉄で騒ぎ、今回の事件になりました。
つまり、何度もチャンスを与えられたのに立ち直ることができなかった。
そういう見方ができる一方で、もうひとつの見方もできます。ニーリーさんは黒人として劣悪な少年期を過ごし、シングルマザーの母親はボーイフレンドに殺されている。おとなになってもホームレスで精神障害者。これで立ち直れというのは無理ではないのか。
一般社会の常識からすれば、死んだのはしかたがないということになるでしょう。
でも精神障害の現場を知る人たちは、そうは考えない。死ぬほどにまで押さえつけることはなかったと、ほとんどの人が考えるはずです。
彼はそれまで、一度や二度のチャンスで立ち直れるほどなまやさしい境遇にはいなかった。だから逸脱しては元にもどることを、何度も、何度もくり返している。おなじことを。無駄としか見えないことを。でもそれが精神障害と向き合うということだと、ニューヨークでニーリーさんとかかわった支援者は考えていたのではないでしょうか。
それが、電車のなかで騒いだからといってあっけなくいのちを奪われてしまった。
やはりこれは死亡事故というより、殺人事件ではないか。
こういうことを許容する「一般社会」が起こした殺人事件ではないか。ぼくにはそんなふうに思えます。
(2023年5月9日)