他者との出会い

 夢のなかに引きこまれるような、名指しがたいなつかしさがありました。
 ホンサンス監督の映画、『小説家の映画』です。
 こころがふわっと浮かび、どこか遠くに漂っていく。じんわり迫ってくるこの思いは何なのか。ある時点でハッとしたから、あれは驚きだったはずです。でも何に驚いたのかがわからない。わからないけれど、これはどこかで見た、感じたことがある。しばらくして浮かんだのは、「いとおしさ」ということばでした。登場人物への、人が生きているということへの。

 これまで少なからぬ映画を見たけれど、こんな経験ははじめてです。フェリーニの映像のようで、それとはちがう。ヴェンダース的だけれど、そうでもない。西ヨーロッパではない、東洋の、韓国のいまの映像です。西洋よりはずっと“なじみ感”がある。まるでぼくらの近所にいる人びとの暮らし、たたずまい、しぐさがそこにそっくり出てきたような。

映画『小説家の映画』の一場面
(同映画のパンフレットより)

 映画の大筋は、小説が書けなくなった小説家と、映画に出なくなった俳優の出会いです。ふたりは、偶然か必然かわからないままに映画を作ってしまう。
 いやこの映画の中身をこれ以上話すのはやめましょう。ここで書くべきは、この映画をぼくがどう経験したかです。

 こういう映画に出会えるなら、生きていてもいい。
 奇妙かもしれないけれど、ぼくはそんなふうに思いました。ここ何年か、これほど「こころを揺すってくれる」映画は見たことがない。たまたま横浜のミニシアターでこの映画に出会った。「いいなあ、これ」と思い、うん、生きていてもいいんだと、そう思ったのです。
 感動とはちがう。もっとゆっくりとしたかかわり、別なレベルで起きる「作品への没入」です。ホンサンス監督の作品世界への旅。
 こういう出会いがあるなら、生きていてもいい。そう思ったのは、しばらく前に小説『シャギー・ベイン』を読んで以来のこと、ことし二度目の経験です。

 なんでまた、映画や本の経験が「生きていてもいい」になるのか。
 それはきっとぼくのなかに、「長生きのために長生きしたくない」という思いがあるからです。そのように主張する倫理学者、エゼキエル・エマニュエルさんの論文を、かつてこのブログで紹介しました(「75歳で死にたい」2021年4月12日)。長生きしてもいいけれど、生きて何をするのか、長生き自体が目標になってはいけない。そういう彼の主張に同化し、ぼくは生きていてもいいと思えることがなくなったら、それがぼくの限界だろうと思うようになりました。
 でも、まだ生きていていいのかもしれない。
 他者とのこのような出会いがあるならば。
『小説家の映画』は、ぼくにそう思わせてくれる作品でした。
(2023年7月13日)