臨死の明晰

 認知症で死期が近いと、一時的に「もどる」人がいる。
 亡くなる直前、まるで認知症が消えたように記憶がもどり、しゃべることがあると、ジャーナリストのビリー・ブレナンさんが長文のレポートに書いています。認知症とは、また人間の意識とはいったい何なのか、考えないわけにはいきません(The Strange Phenomenon of ‘Terminal Lucidity’ By Billy Brennan. July 14, 2026. The New York Times Magazine)

 20年以上前に、ウィーンの心理学者がこの現象に遭遇しています。ある日、自分の母親が祖母の“異変”を伝えてきた。認知症で施設に入っていた祖母が、それまでひとこともしゃべらなかったのに突然しゃべりだしたというのです。たしかに電話するとはっきりしたドイツ語で応じる。家族との暮らしや旅行を思い出し、「すばらしい人生だった」ともいっていた。
 その数日後に、祖母は亡くなりました。

 今際の際(いまわのきわ)に、一時的に頭がはっきりする現象は「臨死の明晰」と名づけられ、2014年の「国際臨死学会」で発表されました。
 これにアメリカのNIA、国立加齢研究所が注目し、研究をはじめています。
 重度の認知症は脳の機能が大幅に失われ、回復はありえないのになぜ「臨死の明晰」は起きるのか。メインストリームの科学は脳や心、意識について、何か重大な見過ごしをしているのではないか。
 これまでの研究で、臨死の明晰はきわめてまれではないことがわかってきました。

 研究グループのひとつ、UW(ウィスコンシン大学)チームは、2023年から認知症の終末期の人をホスピスで撮影しつづけています。
 対象者のひとりであるメアリーは、ずっと言葉をしゃべりませんでした。それがある日、看護助手と視線を合わせ、短時間だけ会話していた。
「もう行けるわよ」「ちゃんといえたのね、どこに行くの?」「わからない。だからあなたを見ているのよ」
 後日、このビデオを検証して研究者が驚きました。しゃべれないメアリーがしゃべっている。家族はもっと驚きました。メアリーに何が起きたのか。けれど「明晰」はすぐに消え、メアリーはその後まもなく亡くなっています。

 そういう事例が、いくつも記録されるようになりました。
 多くは短時間の不明瞭な記録で、「臨死の明晰」が確証されたとはいえないようです。けれど、ここには何かあるという感触を、少なくとも一部の認知科学、心理学や精神医学の研究者は抱いています。
 認知症は、これまで考えられていたほど単純な現象ではないのかもしれません。
(2026年7月20日)