治療をやめたら病気も消えてしまった。
診療所のスタッフ・ミーティングでそんな事例が話題になりました。いつも起きることではないけれど、けっこう深い意味のある現象です。
ひとりの精神病患者が、オホーツク海の海辺の町から浦河にやってきました。たいへんな状態で手に負えない。スタッフへの罵詈雑言、いうことを聞かない、周囲の人を脅すなど、耐えがたい迷惑のかけっぱなし。精神科医の川村敏明先生は考えました。これは本人の問題なのか、周囲の問題なのか。そこを見きわめたうえで、「対応をしない」対応をしました。
浦河の人びとは、何やってんだ、バカ、アホ、といわれても、にこにこしながら「たいへんだね」と苦労をねぎらう。大声なんか気にしない。机を引っくり返されても怒らない。そういう「何もしない」対応がピタッとはまることがあります。いくら騒いでも相手が騒がないと、本人は落ちつく。しばらくして、なにごともなかったかのように遠い町に帰りました。
つまりこれは、本人というより家族や周囲の問題でした。患者がちょっと騒ぎ、驚いた周囲が過剰に反応する。その反応に反応した本人がもっと騒ぐというマイナスのスパイラルは、周囲が騒ぐのをやめればおさまります。
多くはないけれど、ときどきそういう例がある。
それを聞いてぼくは考えました。この患者もまた、ことばで自分を表現できなかったんじゃないか。たいへんだ、苦しい、恐ろしい、不安だ。そういう、ことばで表現できない事態をことば以外の行動で表現したといえるんじゃないか。
ぼくがそんなことを考えるのは、浦河という精神科の経験豊富な町でも、自分をことばで表現するのはとてもむずかしいからです。
星の数ほどのミーティングをくり返し、当事者研究やSSTを通して浦河の人びとは「自分を語る」技を磨こうとしました。でも語ることのできる人はひとにぎりです。語ることがとても大事だとされているのに、大多数の人は自分を自分のことばで語ることができない。そもそもミーティングに出ることすらできない。
ことばで表現できない人は、どうすればいいんだろう。
ことばに代わる表現とは、いったい何なのだろうか。ただ暴れるのではない表現とはどういうもので、どうすれば手に入れ使うことができるのだろう。
これは診療所でくり返し提起されるテーマです。もしかしたら最重要の。
このテーマについて、ぼくは考えつづけます。
(2022年9月20日)