依存症の強迫行動、そのわからなさにぼくらはどう対処すればいいのか。
もちろん共依存なんて概念を持ち出しても役に立たない。アルコール依存症の場合はAA、麻薬の場合はハームリダクションというような対処方法があるけれど、いずれも「とりあえず」の方策でしかない。それでは救えない人も多々いるのが現実です。
根本的な対処法がないのは、依存症の原因がわからないからです。
依存症とは何か、強迫的、衝動的な行動はなぜ起きるか、それは誰にもわからない。
浦河の歩道を歩いていて、いきなり酒屋に「引き込まれてしまった」アルコール依存症者は、なぜそうなったかわからず、「恐ろしいもんだ」というしかありません。

ここで話を一気に広げましょう。
ぼくは依存症の原因がわからないといいました。でもよく考えてみると、原因なんてないんじゃないでしょうか。原因探しをしているあいだは、依存症の混乱から抜けだす道は見つかりません。
それより、それがもともと人間の本性だと考えたほうがわかりやすい。
人間ってそういうもんだという理解。理解というよりは考え方、受け入れ方、場合によったらあきらめ。
これがとても重要なのは、自分もまたそうだと考えられるからです。
依存症者には強迫的、衝動的な行動があり、得体の知れなさがある。でも人間はもともとそういうもので、自分もそうなのだということ。彼らとおなじ得体の知れなさ、わからなさがあり、自分の場合はたまたまそれが強い形で発現していないだけだと考える。あえて平板な言い方をするなら闇といってもいい。そういうものを、自分は、人間は抱えている。

そのことをぼくは、多くの精神障害者から学んだと思います。
彼らはよくいいます。自分がいちばんむずかしいんだと。自分がいちばんわからない。
依存だの幻覚妄想だの逸脱だの、他人の病気や症状はよく見えるけれど、自分のそれは見えない。見えたつもりでも、どうすることもできない。精神病という現象をとおして、自分にはどうすることもできないむずかしさがあることを、多くの当事者が見つづけています。
それが、健常者(浦河では“カルテのない人”と呼ばれます)には見えない。
精神病という特別な状態で見えてくることが、健常者には見えない、あるいは見えにくくなっているか、隠されている。でも大丈夫、ちゃんとあるのです。精神病者がおかしいというなら、誰もがみんなおかしいのです。
そのことに安心して、次を考えましょう。
(2022年7月13日)