ゆるさのもとで

 ことばより暮らしといっても、そこでいう暮らしってどういうことだろう。
 起きて寝て食事をし、掃除をしたり風呂に入ったりする。精神障害者のなかには、こういう暮らしの基本ができない人がたくさんいます。病気が悪くなるのと、暮らしができなくなるのは同時に進むことが多い。だから暮らしを大事にしようというのだけれど、それは規則正しくとか、きちんとしようということとはどうもちがう。ではどういうことか。
 よく考えるとわからない。ただ、先日行われた稲刈りが示唆的です。

 田んぼにやってきたのは乳児から高齢者まで、健常者も障害者ももそのどちらでもない人も、また不登校だったり家庭に困難を抱えた子も、ごちゃまぜでした。60人くらいがてんでに動いたり動いていなかったり。その風景を見て、精神科医の川村先生がいっています。
 これ、機械でやったらダメなんですよ。
 コンバインを入れて刈ればあっという間にできる。それを60人で3時間もかけてする。その非効率、まだるっこさ、しまりのない動き、これが大事だと川村先生はいっている。稲を刈るのが目的ではなく、広い田んぼに出て平和な時間を過ごすのが目的なのだから。
 いやそもそも目的なんてないのかもしれません。
 ただそこにいるだけでいい。

 後日聞いた話では、お互いに名前も知らない不登校や引きこもりの子どもたちがまったく自然にうちとけて会話していたとか。え、あの子が? 事情を知る人が驚いています。
 認知症のお年寄りが稲を束ねていきいきしていました。
 統合失調症のメンバーは汗を流しながらさっぱりした顔つきです。
 全体にとてもいい時間になっている。このよさ、この時間は、コンバインではつくれません。

 田んぼという広い空間。たくさんの人がいるけれど、ほどよい物理的、心理的な距離がある。誰も誰にも指示や命令がない。「早くしなさい」も「ダメでしょ」も聞かれず、自由勝手ばらばら。だけどみんなでいっしょに稲刈りをしている。そういうあれこれが、これ以上はないいい時間になりました。

 暮らしを大事にするというのは、こういうことなのかもしれない。
 具体的に何をどうすればいいのかはわからなくても、またすべきことが多すぎて手に負えなくても、きわめて悲惨な状況から出発しなければならないとしても、たとえば「あの稲刈りの時間」を目指そうと、ぼくらは何事かを考えはじめるかもしれない。何事かをはじめてみるかもしれないし、やめてしまうかもしれない。
 コンバインで一気に片づけるのではなく。
(2022年9月23日)