ことばより暮らし

 この夏、小噴火をくり返したメンバーがいました。
 むしゃくしゃしたのか、診療所のドアをけとばし壊してしまった。デイケアではふだんはおとなしい、仲間にちゃんとあいさつができるメンバーです。それがなぜか、ときどきカッとなってしまう。

 ワーカーが気にかけて話しかけるけれど、なぜそうなるかを彼はうまくしゃべれない。
 ワーカーも、そこは強引に聞きません。「ちゃんと話せよ」なんて迫っても相手は困るばかりで、むしろ貝のようにこころを閉ざしてしまう。
 哲学者のレヴィナスはいいました。精神分析と社会学はことばを奪うと。おまえのこころを明かせと迫るのは、倫理的な危機をももたらすということでしょう。

浦河ひがし町診療所

 ことばにはできないけれど、気持ちの揺れが爆発系の行動に出てしまう。
 それに対し浦河でずっとしてきたのは、そういう自分のこころをどうすればことばにできるか、言語化するかでした。そのための当事者研究やミーティングがありました。
 でも、話すことはむずかしい。メンバーだろうがスタッフだろうが、自分のことはうまく語れない。小噴火にあいながら、ワーカーたちはずっと頭を抱えています。

 ことばだけではない。
 浦河ひがし町診療所で、ことに精神科医の川村先生が目を向けてきたのは「治療より暮らし」ということでした。ぼくはその意味が今回またひとつ、わかったような気がします。
「治療より暮らし」は、ちょっと角度を変えれば「ことばより暮らし」でもある。もしも自分を語ること、こころを言語化することを「治療」の一環にしてしまうと、そこにはかならずひずみが、無理が生じるだろう。その直感が、ことばではない、治療ではない、暮らしだ、という方向に向かわせるのです。

 自分のこころが語れなかったとしても、語るべきこころは何かわからなくても、おいしいものを食べれば気持ちがみたされる、誰かにほめられればうれしい、いい声をかけられれば「その場に受け入れてもらえた」と思える。そういう日常のさまざまな出会いでこころは変わります。そのひとつひとつが織りなされて暮らしができる。そこがていねいにつくられれば、語れなくても人は安心して日々をすごすことができる。

 ことばにできなくてもいい。
 自分を語ることはたいせつだけど、暮らしに目を向けるのもおなじようにたいせつなこと。診療所のエピソードを聞きながら、ぼくはそんなことを考えます。
(2022年9月22日)